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佐々木永田氏

2022-09-17 | 佐々木氏

胤信は【長田氏の祖】となっているではないか!

【永田氏】ではなく、【長田氏】である。

いままで【永田氏の祖】と思い込んでいたので、驚いている。(胤信)

 

永田氏系図(柏原織田家臣系譜)         👇定重

定綱ー信綱ー泰綱ー頼綱ー時信ー氏頼ー満高ー満経ー政頼ー高頼ー氏綱ー義賢・定重ー定正・正廣ー廣正ー廣豊ー廣満

 

web上の情報を集めてみると、以下のような記述が出てきた。

武家の佐々木満経の二男を養子として家を継がせ、三井備中守高久と称した。

佐々木満経の三男久綱は、栗太郡野村に分住し野村氏となる

 六角高頼 (?~?)六角政勝の子。妻は古河公方足利成氏の娘。子は氏綱

 六角氏綱 (?~?)六角高頼の子。母は古河公方足利成氏の娘。六角家は足利将軍家と敵対していたが、足利義澄により六角氏綱は赦免された。

さらに義澄の妹を娶り、婚姻同盟を結んだ。これは足利義澄が足利義稙に対抗するための措置である。後に足利義澄を近江岡山城に匿った。妻は足利政知の娘。子は定頼娘は二条晴良、京極材宗に嫁いだ。異説によると義久という男子がいたと云う

永田景弘 (?~?)六角重臣。刑部少輔。「六角氏式目」に署名。

 永田賢弘 (?~?)六角重臣。備中入道。「六角氏式目」に署名。

 

以下は佐々木哲学校からの記述である。

https://satetsu.seesaa.net/article/201112article_1.html

 

高島衆の永田氏惣領家は「四郎」「伊豆守」を名乗り、湖上交通を支配して六角氏からは自立しており、六角氏文書では「永田殿」と敬称された。また六角氏重臣永田備中家は仮名孫二郎が、愛智郡香庄所務を六角高頼から安堵された永田源次郎と連続しており子孫と推定できる。六角氏近臣団の一員として戦国期に急成長し、備中守高弘・備中守氏弘・刑部少輔某などが見え、六角氏式目の連署人に永田備中入道(賢弘)・永田刑部少輔(景弘)が列している。

織田信長の近江侵攻で、刑部少輔景弘は後藤・進藤氏らとともに観音寺城にこもって信長に呼応し、以後は江州衆として織田軍の一翼を担っている。それに対して永田惣領家ら高島七頭は幕府奉公衆として独立した勢力を維持し、足利義昭政権でも奉公衆として、三好三人衆が義昭邸を襲撃した際には高島七頭が撃退している。しかし信長に対抗して没落し多くは帰農したが、永田氏は前述のように護正院主を輩出して権益を維持した。また江州衆として織田軍に編成された永田刑部少輔は相撲奉行も勤めたことが『信長公記』に見える。明智光秀の乱で没落したが、のちに徳川家に仕えて幕府旗本として存続した。
 また平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである

 

永田氏と長田氏は混同されることが多く、とくに永田氏の本貫が『寛政重修諸家譜』に見られるように高島郡永田ではなく蒲生郡長田と思われ、また江戸時代には歌舞伎の演目でも佐々木盛綱・高綱兄弟が登場するほど佐々木氏は人気があったことから、長田氏の子孫も佐々木永田氏を名乗り、四つ目結紋を使用したと考えられる。このように永田氏のすべてが、必ずしも高島七頭や六角氏旧臣の永田氏とは限らない。これが系譜研究の難しいところである。

永田氏系図
胤信┬長綱(三郎左衛門)─┬有綱(三郎)
   │            └長隆(四郎)
   └貞綱(四郎)─長信(四郎)

 

ますます混乱する。

もしかすると、佐々木義賢の弟となったのは、永田氏ではなく、平井氏が永田氏となったのではないだろうか?

同年代に平井定重がいる。

平井定重====1560備中覚雲 ??
『定武の近親には備中守定重(覚雲)がおり、その子かとみられる備中守秀定という一族もいた。』とある。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hirai1.htm

 

難しい。


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