九里 【九里】を探して三千里

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菖蒲佐々木金田氏の娘(古河家 官女 金田氏)

2022-12-05 | 佐々木氏

2022年11月20日の記事からだが、すごく引っかかる部分、↓

斎藤実盛の11代の後裔である斎藤実家の妻が、菖蒲城主佐々木金田氏の娘(古河家官女金田氏)である。金田氏は佐々木義清の後裔である。

義清の後裔が菖蒲の佐々木金田氏であった点。

 

つまり、代々古河公方の家に仕える官女を出していた「金田氏」となる。

古河公方 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9

 

金田氏は足利家とつながりがあった!

 

足利高基や弟義明が活躍していた時代とその父政氏の時代と九里員秀前後の時代とかぶってくる。

つまり、金田秀宗前後の時代もかぶると思う。

そしてとうとう、以前から気になっていた金田氏の歴史とつながってくるのではないだろうか?

http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk007/kk7b-koyumikubo.html

 

更に図書館レファレンスの以下の部分の足利茂氏

康正2年(1456)に菖蒲城を築いたとされる古河公方足利茂氏の家臣金田式部則綱および鎌倉府から古河公方(5代)までの佐々木氏や菖蒲佐々木氏の動静については郷土資料に詳しい。

☆この茂氏は『足利持氏』のことだろうか?

もしも、持氏だとするならば、下記の足利成氏の父であるので、繋がってくる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

 

菖蒲城のwikipediaに

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E

「初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。 」

 

https://4travel.jp/travelogue/11303807

 

この部分を読むと、菖蒲佐々木氏から金田氏となり、大塚姓となったようであり、上総の金田氏とは別系統とも見えるが、上総金田氏も千葉氏から出ており、また菖蒲佐々木氏=後の金田氏も佐々木義清の裔であり、其の佐々木氏もまた永田胤信など千葉氏とのつながりも感じさせる部分がある。

 

*****

 

鎌倉公方となった足利氏は、基氏が初代で、氏満ー満兼ー持氏ー成氏…となっていく。

この成氏が初代の古河公方である。

古河公方は、成氏ー政氏ー高基ー晴氏ー義氏 である。

 

wikipediaによると、鎌倉公方・古河公方と室町幕府の将軍とは対峙した関係であったようである。

遡ってみようと思う。

 

室町幕府の将軍は

足利尊氏ー義詮ー義満ー義持ー義量ー義教ー…

 

六角氏頼の息に満高がおり、その佐々木満高と足利家に関係があった。

https://satetsu.seesaa.net/article/200505article_3.html

佐々木哲学校のブログ記事より 大事な部分をご紹介したいと思う。

六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子

母藤原氏。

実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。


 貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂されたが(『師守記』貞治四年四月十日条・十一日条)、六角氏頼の実子として育てられたようだ。嫡母は氏頼の室藤原氏である(迎陽記)。
 

明徳四年(一三九三)八月四日付斯波義将書状(尊経閣文庫)で、宛所は「佐々木備中守」となっている。このときまでに備中守に補任していたのだろう。備中守は頼綱以来六角氏の世襲官途であり、以後満高は「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれた。『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条には「佐々木左京大夫入道跡」とあるように、満高は左京大夫にも任官していた。沙々貴神社所蔵佐々木系図などで左京大夫とすることと一致するとともに、『足利治乱記』で鎌倉足利基氏の娘婿とする六角右京大夫が満高のことである。しかし「備中守」が佐々木六角氏の世襲官途だったためだろう、「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれ続けた。

満高は、嫡子満綱の正妻に足利義満の娘を迎え(『系図纂要』足利系図)、義満政権期はまさに満高の絶頂期であった。ところが義満の没後、将軍義持は父義満の政治を否定、義満の「鹿苑院太上天皇」の尊号を朝廷に返上し、勘合貿易も中止した。そして義持と満高も対立する。

 

と、室町幕府将軍と六角佐々木氏とは密な関係であったようである。

そして、室町幕府将軍職は 義満のあと義持ー義量(よしかず)ー義教ー…と続き、義澄に至る。

 

佐々木氏と室町幕府将軍職とのつながりがこんなにも深いとは…驚きである。

その氏頼に仕えていた九里氏がやがて分かれて、一つは和歌山の九里氏となってつながれていく。

もう一つの流れは、近江国に居住していたのだと思う。

また、更に金田氏に従っていた九里もいたとすると現在の久喜あたりに九里がいた可能性が出てきて、

久伊豆神社(越谷)にあった「九里」の名前も、その傍証にもなるかもしれない。

 

金田氏が佐々木氏の出とすると、なおさらにその可能性が大きいと思うが…


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