光基の母方の祖父である『藤原佐実』とは、いったいどなたなのであろうか?
【綱文和暦】
天仁1年5月17日(11080050170) 1条
【綱文】
皇后宮大進源仲正、尾張権守藤原佐実を傷く、是日、法皇、摂政忠実をして、仲正を鞠問せしめ給ふ、尋で、仲正を左衛門府弓場に拘す、
【区分】
大日本史料
【人名】
源仲正,藤原佐実,藤原忠実,白河法皇
【官職】
皇后宮大進,権守,尾張権守,尾張守,法皇,摂政
【地名】
尾張
【事項】
皇后宮,傷,鞠問,左衛門府弓場,左衛門府,弓場,拘
「鬢を削ぎ取られ…」と文書にあったような気が。。。
『藤原行実』の兄弟である佐実であろうか? 佐實の兄行実の妻は源頼綱女である。
頼綱〰仲政~頼政 であるので、ここでも頼政と関係が出てくる。
光基の父光信を見ると、
頼綱の弟国房~光国~光信~光基
頼綱・国房は、綺羅星のような存在だったようだが、実は兄弟でありながら、国房は頼綱の養子となっていたようである。
実は、この国房と源義家とが争いを起こしている。
美濃源氏に関しては、こちらが参考になった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E6%BA%90%E6%B0%8F
では、父親である頼国はどんな方であったのだろうか。wikipediaによると
【源 頼国(みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年(1058年)?)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。母は藤原元平、あるいは藤原元尹の娘。弟に頼家、頼基らがある。正四位下、蔵人、左衛門尉、讃岐守、美濃守。
経歴
父の頼光同様、主に京における中級官人として活動する。特に藤原道長一族との結びつきが強く、道長の娘上東門院彰子、その所生の皇子敦成親王(後一条天皇)に長きに渡って近侍した。武人としてよりも文人としての活動が主体であり、寛弘4年(1007年)に道長の催した漢詩の会に出席したことなどが記録に見える。内昇殿を許され、娘達を摂政藤原師実、参議藤原為房といった公卿の妻妾に配すなど、総じて貴族社会の一員としての側面が強かった。
説話上では、父頼光の酒呑童子退治に四天王や藤原保昌らと共に同行し、茨木童子の住居であった「鬼ヶ城」を攻め落とす武士として描かれるが、史実上の頼国に武人としての目立った事跡はなく、寛仁3年(1019年)に暴漢を逮捕したことなど、主に京周辺の警察的活動に従事した。】
↑これは蓮忍が地頭となったあの丹波国大山の酒呑童子退治と同じ場所であろうか。
一方、光基の祖父源光国と父光信は、wikipediaによると【天仁2年(1109年)、光国は八幡太郎義家の弟・源義綱の一族追討事件では義家の孫源為義と共に追討の任にあたった(『殿暦』)。光国の子源光信は北面の武士となり鳥羽院の北面四天王の一人となったが、大治5年(1130年)の源義親の乱により土佐国へ流刑となった。北面の武士は弟の源光保が継承し、保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方に参加して勝利し、平治元年(1160年)の平治の乱では二条親政派となり嫡男・光宗や甥の光基を率いて信西を討つなど大功を挙げるが、後に寝返った。しかし、永暦元年(1160年)6月、後白河院の命を狙ったという罪状で誅殺された。】
そして、光信の弟である光保に注目してみると…up-downの大きい流転の人生…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D
いつの時代も生きていくことは大変なのだ。。。
光信の方も藤原忠実の邸に入り込んでの大騒ぎで、土佐へ流罪となる。
さて光基であるが、「光衡」を養子をとって「土岐氏」を継がせる。この「光衡」は光基の父の弟(=おじ)である光長の子どもである。
つまりは従兄弟である。そして、この叔父も土岐光長と記されている。
つまり、光基はこの叔父の系に(叔父とその次男は亡くなっていたようだ。長男は詳細がなく、三男が光衡)「土岐氏」を譲り、自らの子孫には「伊賀氏」を名乗らせたことになるのではないだろうか。
そして不思議なのは、藤原秀郷の方にもある「伊賀氏」
5月10日の記事と重ね合わせてみる。藤原秀行を調べ始めたことから今回の探索は始まっているので、光基の父方に伊賀氏があり、光基の子(頼基)が伊賀氏をついでも何ら不思議ではないのではないだろうか。
しかも、もともとは和田氏。秀郷の系のどこかに養子として入ったとのことである。
この2つの伊賀氏が同じ伊賀氏なのかどうかを見つけることができればいいのだが・・・
*源光基の三男。後白河院蔵人。伊賀蔵人頼基の系の伊賀氏
*藤原秀郷から始まって、
伊賀公季 藤原公光の子(1050年代か?)
伊賀公助 伊賀公季の子
伊賀文郷 伊賀公助の子
伊賀光郷 伊賀文郷の子
伊賀朝光 いがともみつ 伊賀光郷の子 母:源邦業の娘 伊賀氏の祖 生没年:生年不詳 - 建保3年9月14日(1215年10月8日)
伊賀光季 いがみつすえ 伊賀朝光の長男 母:二階堂行政の娘 生没年:生年不詳 - 1221年6月6日(承久3年5月15日)
伊賀光宗 いがみつむね 伊賀朝光の子 生没年:治承2年(1178年) - 康元2年1月25日(1257年2月10日) 没歳:80歳
…とつながる伊賀氏
↓の記事にも気になることが書いてありました。(源経頼と親しかった! これは近江にも関係しそう。成頼・経頼兄弟。)
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html#05
【綱文和暦】
天仁1年5月17日(11080050170) 1条
【綱文】
皇后宮大進源仲正、尾張権守藤原佐実を傷く、是日、法皇、摂政忠実をして、仲正を鞠問せしめ給ふ、尋で、仲正を左衛門府弓場に拘す、
【区分】
大日本史料
【人名】
源仲正,藤原佐実,藤原忠実,白河法皇
【官職】
皇后宮大進,権守,尾張権守,尾張守,法皇,摂政
【地名】
尾張
【事項】
皇后宮,傷,鞠問,左衛門府弓場,左衛門府,弓場,拘
「鬢を削ぎ取られ…」と文書にあったような気が。。。
『藤原行実』の兄弟である佐実であろうか? 佐實の兄行実の妻は源頼綱女である。
頼綱〰仲政~頼政 であるので、ここでも頼政と関係が出てくる。
光基の父光信を見ると、
頼綱の弟国房~光国~光信~光基
頼綱・国房は、綺羅星のような存在だったようだが、実は兄弟でありながら、国房は頼綱の養子となっていたようである。
実は、この国房と源義家とが争いを起こしている。
美濃源氏に関しては、こちらが参考になった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E6%BA%90%E6%B0%8F
では、父親である頼国はどんな方であったのだろうか。wikipediaによると
【源 頼国(みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年(1058年)?)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。母は藤原元平、あるいは藤原元尹の娘。弟に頼家、頼基らがある。正四位下、蔵人、左衛門尉、讃岐守、美濃守。
経歴
父の頼光同様、主に京における中級官人として活動する。特に藤原道長一族との結びつきが強く、道長の娘上東門院彰子、その所生の皇子敦成親王(後一条天皇)に長きに渡って近侍した。武人としてよりも文人としての活動が主体であり、寛弘4年(1007年)に道長の催した漢詩の会に出席したことなどが記録に見える。内昇殿を許され、娘達を摂政藤原師実、参議藤原為房といった公卿の妻妾に配すなど、総じて貴族社会の一員としての側面が強かった。
説話上では、父頼光の酒呑童子退治に四天王や藤原保昌らと共に同行し、茨木童子の住居であった「鬼ヶ城」を攻め落とす武士として描かれるが、史実上の頼国に武人としての目立った事跡はなく、寛仁3年(1019年)に暴漢を逮捕したことなど、主に京周辺の警察的活動に従事した。】
↑これは蓮忍が地頭となったあの丹波国大山の酒呑童子退治と同じ場所であろうか。
一方、光基の祖父源光国と父光信は、wikipediaによると【天仁2年(1109年)、光国は八幡太郎義家の弟・源義綱の一族追討事件では義家の孫源為義と共に追討の任にあたった(『殿暦』)。光国の子源光信は北面の武士となり鳥羽院の北面四天王の一人となったが、大治5年(1130年)の源義親の乱により土佐国へ流刑となった。北面の武士は弟の源光保が継承し、保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方に参加して勝利し、平治元年(1160年)の平治の乱では二条親政派となり嫡男・光宗や甥の光基を率いて信西を討つなど大功を挙げるが、後に寝返った。しかし、永暦元年(1160年)6月、後白河院の命を狙ったという罪状で誅殺された。】
そして、光信の弟である光保に注目してみると…up-downの大きい流転の人生…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D
いつの時代も生きていくことは大変なのだ。。。
光信の方も藤原忠実の邸に入り込んでの大騒ぎで、土佐へ流罪となる。
さて光基であるが、「光衡」を養子をとって「土岐氏」を継がせる。この「光衡」は光基の父の弟(=おじ)である光長の子どもである。
つまりは従兄弟である。そして、この叔父も土岐光長と記されている。
つまり、光基はこの叔父の系に(叔父とその次男は亡くなっていたようだ。長男は詳細がなく、三男が光衡)「土岐氏」を譲り、自らの子孫には「伊賀氏」を名乗らせたことになるのではないだろうか。
そして不思議なのは、藤原秀郷の方にもある「伊賀氏」
5月10日の記事と重ね合わせてみる。藤原秀行を調べ始めたことから今回の探索は始まっているので、光基の父方に伊賀氏があり、光基の子(頼基)が伊賀氏をついでも何ら不思議ではないのではないだろうか。
しかも、もともとは和田氏。秀郷の系のどこかに養子として入ったとのことである。
この2つの伊賀氏が同じ伊賀氏なのかどうかを見つけることができればいいのだが・・・
*源光基の三男。後白河院蔵人。伊賀蔵人頼基の系の伊賀氏
*藤原秀郷から始まって、
伊賀公季 藤原公光の子(1050年代か?)
伊賀公助 伊賀公季の子
伊賀文郷 伊賀公助の子
伊賀光郷 伊賀文郷の子
伊賀朝光 いがともみつ 伊賀光郷の子 母:源邦業の娘 伊賀氏の祖 生没年:生年不詳 - 建保3年9月14日(1215年10月8日)
伊賀光季 いがみつすえ 伊賀朝光の長男 母:二階堂行政の娘 生没年:生年不詳 - 1221年6月6日(承久3年5月15日)
伊賀光宗 いがみつむね 伊賀朝光の子 生没年:治承2年(1178年) - 康元2年1月25日(1257年2月10日) 没歳:80歳
…とつながる伊賀氏
↓の記事にも気になることが書いてありました。(源経頼と親しかった! これは近江にも関係しそう。成頼・経頼兄弟。)
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html#05