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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(3)房総半島と鎌倉の中継点であった六浦荘

2025-03-09 | 大中臣氏
源義朝(または義平)が大中臣実経に地頭職をあたえた【六浦荘】とは、どのような場所であったのだろうか?

今の金沢文庫あたりとし、地図とその周辺を確認してみると交通の要衝であったようなのだ。








うすく小さな赤く囲ってある部分は、逗子の沼間(義朝の居館があった場所)
金沢文庫にも鎌倉にも近い!
逗子の沼間は、房総半島へ行くときには金沢文庫方面へ、鎌倉へ行くのも同じくらいの距離で行けるすごく良い場所に居館があったようだ。



【義朝の東国】wikipediaより

義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け上総御曹司」と呼ばれた。

東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。それまでの居館があった鎌倉郡沼浜(現在の神奈川県逗子市沼間から高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。 

長男・義平の生母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野義通の妹との間には次男・朝長を設けるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。

義朝の勢力伸張は、下野国足利郡足利に本拠を置く大叔父である義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の嫡男・義康と相婿となるなど連携を強めた。

*****

義朝の母は藤原忠清の娘で、忠清は秀郷流の伊藤氏でもある。
その忠清の甥の清隆(猫間中納言)の妻は平正盛の娘である。


以下は 私的 memo

その清隆の娘は藤原長輔に嫁ぎ、季隆を産んでいる。

卜部氏系図に吉田
那珂大中臣氏の系図に吉田
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