波多野義通は、波多野経範より5代目に当たる。
源頼義に30年近く仕え、前九年の役で活躍した佐伯経範は藤原姓(波多野氏と同族)
これで計算すると1125年前後に生まれた人物となり、やはり源為義の時代と成る。
藤原氏族系図1.(千葉琢穂著)によると親清=称山内義通となっている。
下記の森岡先生の系図では親清の息義通となっている。
山内義通と波多野義通が同一人物かどうかは不明のまま、として、次に進もう。
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義朝の家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛は平治の乱の際に源義朝に従っていた。
wikipedia「斎藤実盛」より 44歳の時に駒王丸を助ける。
武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。
実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。
このことから、中原兼遠の夫妻が乳父母であったことがわかる。
中原親能夫妻もまた源頼朝の娘の乳父母であった。「親能の妻は、文治2年(1186年)に誕生した頼朝の次女・三幡の乳母となっていた。」とある。
後藤実基は頼朝の妹の「坊門姫」の乳父母であった。(実基も藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。)
源氏の乳父母には、特に平安から鎌倉時代前期までは、中原氏と後藤氏や山内氏・鎌田氏などの藤原秀郷流の一族であったようだ。
中原親能もまた、母は波多野氏であったのか、相模国で育っている。(と言われている)
中原親能
「『尊卑分脈』によれば、明経道の家系である中原氏出身の中原広季の実子で、大江広元とは兄弟とされる。
一方、『大友家文書録』によれば、実父は参議・藤原光能であるが、母が前・明法博士の中原広季の娘だったので、外祖父の養子になったのだという。
なお、第4代将軍九条頼経の側近である大外記中原師員(幕府の高級官僚摂津氏の遠祖)は、従兄弟の師茂の子である。 」
三幡の乳母(波多野経家娘?)と書かれたものもあった。波多野氏の中の誰かが中原親能の妻となっていた可能性もあるのかもしれない。
不思議ではないか。
中原親能は土肥実平と共に京での情報を集め源頼朝に送る役目となり、いっぽう中原久経は近藤国平と共に全国に「鎌倉殿御使」として上洛,畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たる役目となっている。
何れも藤原秀郷流の大きな氏族の中でつながりを持っている者を選んだのではないだろうか?
つまりは、もともと源氏の乳父母の流れの者を。
中原久経
平安末・鎌倉初期の幕府吏僚。源義朝に仕え,頼朝にもおそらく流人時代から候じていたものと思われる。頼朝の兄朝長の母波多野義通の妹の子という縁で早くから源家に仕えたようである。文筆に携わる者であったが,平家追討のさなか,頼朝の命を受け元暦2(1185)年2月近藤国平と共に「鎌倉殿御使」として上洛,畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たる。さらに7月には院庁下文を帯し鎮西に下向,同様に管内の治安維持に当たり,後継の天野遠景の鎮西奉行就任まで同地にあった。久経は主に後白河院との折衝役を務めたと推測される。しかしその後については全く不明である。
(奥田環)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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そして、鎌田氏が長田氏と婚姻関係を持っていたように、中原久経の裔も長田氏とも婚姻関係を持っていたと想像できる。
また、秀郷流の中の佐藤氏から養子を入れた後藤氏は藤原利仁流斎藤氏であり、利仁流との接点となる「後藤基清」。
後藤基清は中原政経とおなじ一条能保の家司として共に働き、婚姻関係も持っていたかもしれないと思う。
後藤基清の息に「太田基連」がいる。その太田氏がのちのち中原の常忍と同様に日蓮の支援者として登場する「太田乗明」なのではないだろうか?
そして一条能保の家司であった「小野義成」とも同様に、中原氏は小野氏ともつながりを持っていたであろうと思われる節もある。
小野氏とは近江国で繋がっていそうなので、この辺からのつながりではないかと思うのだ。(後日調査要)
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私の頭の中では
中原久経ー政経ー経任(橘次)-経久ー常忍 と成るように思っている。
その周辺で、中原氏(大江氏・橘氏)・秀郷流の全般・後藤氏(斎藤氏)・太田氏 ・長田氏・小野氏らとつながってきているような気がしている。
そして近江国の伊香郡にいた関係上「余語氏」(佐々木流)とつながった事によって、後に佐々氏・前野氏とのつながりができ、そのつながりが大和宇陀松山藩の九里氏にも引き継がれていると見ることができる。
和歌山の九里氏は大江氏とのつながりが強く出ているようなのである。(ここは、これから図書館に依頼している系図が来るとわかるかもしれない。)
余語氏よりも以前に、木村氏で佐々木氏とつながっていたのかもしれないし、長田氏でつながっていたのかもしれないが、そこもこれから!である。
次から次へと謎が追ってくるが、徐々に範囲が狭間ってきているように思う。