今朝、自分の記事を見て、その分かりにくさや誤解を招きそうな部分が気になったので、
書き直しました!
伊勢神宮の外宮御師の北監物家の文書 来田文書
そこに【近江国の嶋郷】の記載があるという事は、木田氏とつながっていることを意味しているのだろうか?
禁裏領山国荘
という本に南倉[足代〕民部丞弘康 という名がでていた。
ということは、
南倉[足代〕民部丞弘康に売った券?
源(毛利)頼隆は幼いときに、『平治の乱』で、祖父ほども年齢が離れた年老いた父の源義隆を失って、30歳近く親子ほども年が離れた長兄の森義広の軍勢に護衛されて、嬰児であった異母弟の茂理定隆とともに婚姻関係にある丹姓平氏千葉氏(房総平氏)の庇護を受けた。
此処で疑問なのは、誰と誰が婚姻関係があったのか…
成長した頼隆は、義広・定隆兄弟とともに信濃国に戻って、源家(相模源氏)の当主で、族孫の源頼朝に仕えて、源氏一門の御家人として厚遇された。
頼隆の子の頼定は、朝廷や北条得宗家に仕えて、安嘉門院判官代などを歴任した。頼定の子の定氏(頼仲)も父と同様で、北白河蔵人などを歴任した。
頼隆の兄、森義広は、以下のようになっている。
森義広 : 別名は頼義。源義隆の長男、若槻頼隆[4]・茂理定隆の兄、義昭(義秋)の父、義輝(義照)の祖父。信濃森氏(信濃源氏)の祖で、信濃国佐久郡茂理(森)郷[5](現在の長野県佐久市森大字)を本拠地とする。治部丞・蔵人に任じられて、晩年に出家して「西阿入道」と名乗った。
義朝の家臣か舅に【長田】または、家臣の鎌田の舅【長田】、更に源義広の舅も【長田】だったのだろうか。
確か、長田氏は平姓ではあるものの、頼信にも仕え、義朝に領地も賜わっていた。源氏の家司的存在であったかもしれない。
兄義広の婚姻関係だろうか。
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E8%89%AF
平良兼 : 別名は良致。上総太郎または上総次郎。仁明源氏の源護の娘を妻とした[6]。甥の将門と仲が悪く、良兼の女婿で妻の甥でもある従子の貞盛(良望の子)とともにこれを争い939年6月に没した。子の致兼(むねかね)[7]・致時(むねとき)[8]兄弟は従弟の将門を滅ぼした戦功で尾張国を賜り、同国知多郡野間郷内海庄長田村[9]の地名をちなんで長田氏・毛利氏(相模平氏/尾張平氏)の祖となった[10]。
この系統に浦野氏とその庶家である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏、庶家に三河石橋氏))・尾張木田氏・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏と三河平氏の足助氏・大浜氏・永井氏などの庶家が出たが、大浜氏・永井氏をのぞいて陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した。
つまりは、森氏も
木田氏と同族となる!!
この「森氏と木田氏」の関係は次に! このままでは混乱しそうなので…
御師なので、御札をもって、あちらこちらに行き、「伊勢にいらした際には是非この宿へ…」みたいなこともあったかもしれません。お参り旅行エージェントみたいな感じだったのかもしれません。
南倉氏・森氏・毛利氏・若槻氏…等、ご親戚にいらっしゃいませんか?
私の方は、高校時代の友人が毛利さん。
息子の古文書の先生が森先生。
私の系の九里の親戚は、大井さん、島田さん、荻野さん、横山さん、馬場さん、
養子に入ってきて下さったのは、佐々さん、水野さん、
養子に行ったのは、前野さん、佐々さん、
九里の奥さんになってくださった家は、佐原さん、長谷川さん、早川さん、永田さん、などなどです。
何処か、重なっていると嬉しいのですが…。