慶長5年(1600年)、若狭一国の領主として小浜城主となった京極高次は、重臣佐々義勝を高浜城代としている。 …とあるが、1560年代に時代を遡ると意外なことがわかる。
【武田元明(孫八郎・元次)1552ー1582】
武田義統の子。母は将軍足利義晴の女。
1567年父義統の死により家督を継いだが、この時すでに武田氏の勢威はないにひとしく、譜代の家臣らは自領に引きこもり、元明に従わなかった。
翌年8月越前朝倉氏が若狭に侵入し小浜を攻めた時、元明は朝倉氏に庇護を頼んで越前に去り、ここに若狭武田氏は事実上滅亡した。
1573年8月朝倉氏が滅ぶと、元明は若狭へ帰り神宮寺などに潜居したと伝えるが、1581年かっての武田氏家臣逸見昌経の死去に伴い、その旧領大飯郡の内3千石を織田信長から与えられた。しかし翌年の本能寺の変に際し、明智光秀に味方し丹羽長秀の居城佐和山を攻め落としたため、同年7月19日近江海津で自殺させられた。室竜子は京極高吉の女、元明の死後羽柴秀吉の側室となり、松丸殿といった。
【武田義勝(津川義勝・佐々木義勝・佐々義勝)】
武田元明の子。
父元明自刃後、義勝は武田姓をはばかり津川姓を称した。のちに津川義勝は親族である京極高次に重臣として仕えた。
京極高次が関ヶ原の戦いの功により若狭一国の主となると大飯郡高浜城5000石を与えられ、また佐々木姓を称することが許された。以後佐々木義勝または佐々義勝として京極家重臣に列した。
江戸時代の丸亀藩家老の佐々家はこの末裔といわれている。
1836年10月25日丸亀藩主京極高朗が、多度郡白方村で大筒の試射に臨場した時、家老佐々九郎兵衛は供奉している(香川家文書『万事覚附』)。
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津軽に配流された理由とは、以下のようなことであるようだ。(佐々木哲氏メルマガによる)
慶長十四年十二月九日付佐々加賀守・龍崎図書連署下知状(吉田吉兵衞家文書)でも龍崎図書とともに下知状を発給していたが、高次逝去の直後から筆頭家老熊谷主水が国政を専横して、佐々義勝ら老臣の不正を駿府の徳川家康に直訴した。
その結果、慶長十六年佐々義勝が津軽に、安養寺門斎の子沖長門が薩摩、龍崎図書が対馬に配流された(寛政重修諸家譜)。次の世代は、佐々九郎兵衞光長である。
(佐々木哲氏メルマガによる)
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津軽での出来事は、またの機会に。ここで佐々氏についていったと思われる「九里治郎兵衛」は、自害してしまいます。