九里 【九里】を探して三千里

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古代からのつながり (3)

2016-03-26 | 古代からのつながり

近江国の九里の系図の元となるのは天武天皇とその末裔から中原氏になった者たちであり、中原姓の時代は滋賀湖北の余呉(伊香郡)に住んでいた。
江州中原の祖は天武天皇であり、本来の十市中原氏は安寧第三子磯城津彦の後裔であり、安寧天皇の妻は鴨族であった。

江州中原と十市中原の間をつなぐ人、それは、鴨族(賀茂)なのではないだろうか。
また、賀茂氏は古代より水を使った祭祀も行っており、その祭祀跡ではないかと言われている遺跡も出ている。
井口・井ノ口などの氏とのつながりも感じる。


ここで、中原景経の事をご紹介したい。
九里の祖の一代前 経任の兄にあたる人物である。(以下は佐野静代 水と環境教育の論文紀要より)

井口系図によれば、もと中原氏より出て近江国に来たり、中原景経を祖と伝えている。
この中原景経に関しては、井ノ口日吉神社書中のその名を記す一節があり、今は損失した「富永荘御鎮守新日吉神社 文永五年」銘の写し中に、願主の一人として「御庄奉行人仲原景経」の名がある。
この記録に従うならば、井口氏の来歴は富永庄の在地荘官としての位置づけにルーツを求めることが可能となろう。井口氏系図中にも、富永荘内の各郷の地頭職を相伝していたとの記述もみられる。…景経が寄進した日吉神社の鐘は現存していないが、それは「神池」に沈められたままになっているからであるという。鐘が水神祭祀と関係していることは、三井の晩鐘型説話によって明らかであり、この場合の「神池」の祭祀に井口氏があずかっていた可能性を示すものと考えられる。…

以上が佐野氏の論文紀要であったが、井口氏がそしてその祖である中原景経が水神祭祀とかかわっていた可能性があり、鐘が水神祭祀に関係があることがわかる。
そしてここに古代に水祭祀の遺跡のある賀茂氏と中原氏と井ノ口氏のつながりが生まれるのではないかと思うのである。
佐味族らが鐘を作っていたこともあるかもしれないとも思うのである。
江州中原氏は景経以前から余呉付近に住んでいたことが、近江国御家人井口中原系図よりわかる。(私の追記)

1231年「富永庄」
郡名 伊香郡
領家:青蓮院門跡領・延暦寺領・山門領
史料村郷名:雨森郷・落川郷・高野郷・唐川郷・野村郷
出典:円満院梵鐘銘・青蓮院文書・井口日吉神社文書


鴨別雷神社の社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。
これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。
成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神賀茂別雷命である。また、父は乙訓社の雷神であったという。

また、乙訓坐大雷神社には火雷神が祀られており、玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。
…と、云うことである。

この神社のある乙訓郡には、長井氏の祖がいた可能性があるという。姓氏家系大辞典より繙いてみると『山城国乙訓郡長井郷より起こりしか。延暦二十四年紀(805年)に「船木王に姓を長井真人と賜ふ」とあるより起こる。』ということである。

この船木王とは、江州中原氏の系図の中の人物、天武天皇の息である舎人親王の息の船王・舩親王の事ではないだろうか。(…と思ったが、年代が合わず、残念。)

そこで、井口と中原、そして長井とつながっていくような気もするのである。(…と思ったが、年代が合わず残念。)



ここで、丹生というキーワードを探ってみたい。
【丹生】という場所
九里と関係のある丹生という場所に絞って記載する。

越中国 新川郡 尓比可波 邇布加波 
若狭国 小浜市 太良庄 丹生神社
近江国 浅井郷 新居号(爾布) 余呉に二か所の丹生神社
隠岐国 周吉郡 新野郷 尓比乃
肥前国 高来郡 新居郷(爾比井)
出雲国 安来郡
越前国 丹生郡

百済あたりからやってきた渡来人であるクリ族・佐味族のまとめ役として「クリの頭」と呼ばれているうちに、九里となったか・・・。
(九州の豪族クリ・石見国の久利氏も関係ありか)


水と鍛冶、冶金との関わりから『保』という流通関連に携わるようになっていったか。(古代、賀茂族は水運・海軍網の維持、経営に従事していたという。
後々、この流通と経営が『保』に関るきっかけとなるのではないだろうか?)


『福井県史』通史編1 原始・古代 web記事より↓ ~~ 佐味の記載があった。 

越前の丹生郡と重なる場所であろうか、
高森遺跡の付近に八世紀後半のものと推定されている丹生郷遺跡がある。「丹生郷長」「五月郷」などの墨書土器が発見され、ここを丹生郷の郷衙跡とみる見解もある。
 さらに注目すべき多量の墨書土器が出土した武生市村国遺跡は、日野川の東岸、村国山の北麓にある。弥生・古墳・奈良・平安時代にわたる複合遺跡であるが、五世紀から七世紀前半にかけての遺物・遺構はまったく検出されていない。ところが、溝・井戸・湿地などより大量の墨書土器が発見された。その数は百数十点におよび、県内の墨書土器出土遺跡のなかでも最高の個数である。なかでも重要なのは、「佐味」と記した完形に近い坏が出土していることであろう。

 「佐味」は奈良時代の丹生郡の豪族のウジ名であり、なかでも佐味君浪麻呂は、天平三年(七三一)郡司少領、天平五年に郡司大領として文書に名を留めている(公二・三)。そのほか佐味公入麻呂・佐味磯成・佐味磯守・佐味大長・佐味敷浪・佐味玉敷女などの名が天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)などにみえ、奈良時代における佐味氏の繁栄を語っている。
 「佐味」のほか、「佐印」「佐□」「佐家」「佐」などの土器も数多くみられ、佐味氏の館がこの近辺にあったことを推定することもできよう。佐印のほか、「大印」「貞印」など「印」の字をつけた土器が多数出土しているのも本遺跡の特徴の一つである。このほか、「徳成女」「富吉女」など同一人の筆によると考えられるものも多数出土している。さらにこの遺跡からは「済/舟津」と判読できる土器が発見されている。それは、本遺跡が日野川に面し、港・舟着場としての機能も果たしていた重要な証左といえるであろう。
 村国遺跡からはこうした多数の墨書土器に加えて石帯の未成品も出土している。これらのことを考え合わせれば、おそらくはたんなる集落遺跡ではなく、郡衙の所在地であったのではないかとも考えられる。丹生郡衙の所在地としてはすでに高森遺跡が有力となっているが、しかしこれは互いに矛盾することではない。というのも、弘仁十四年(八一四)に丹生郡より今立郡が分立するに際して、丹生郡衙も新しく設置された可能性が大きいからである。

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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-07-04 13:22:04
いい記事発見です。
今ちょっと麻積氏って以前から気になっていたら佐野氏とか小見氏とか出てきんですよね。おばあちゃんが群馬出身で佐野あたりは特に気になってますし、どうも佐野さんの血筋もありそうなので気になって来ましたよ。

麻積でオミと読むので小見に繋がるんですよね。
けどマセキって思ってよんでしまうのが通常でこの前歩いていたら芸能事務所のマセキさんの所通って、うわあって思い、今話題の芸能事務所もいろいろ芸人さん抱えてくれてるので調べてみました。狩野さんは栗原の神社の息子なので縁があるのも必然に思いますし、なんども失敗しても再出発をちゃんと反省していれば人の見方も変わりますよね。あと狩野さん弓道で凄いんですよ。

という事で追っている藤太と関係ありそうに昔から妄想してます。武烈と八幡を祀ってるのでどちらかの縁何だろうとも。

藤太がご褒美に貰った鐘の事なのかしら?三井寺に見に行こうとしたら閉門間近でいけなかったんですよね。

この記事は相当凄いヒントがいっぱいありますのでゆっくり拝見したいと思います。

ひとまず忘れないうちの麻績と佐野と藤太とマセキ(阿蘇じゃなく安蘇郡麻績郷現在の栃木県佐野市小見ですってウィキさんによると)さんが多い愛知県が気になりお伝えしておきます。

阿蘇と麻績は父関係で追っている地なんですけど栃木にあったならビンゴです。
でもう1つ、阿蘇もお水の地ですから本来九里さんの一族が関わらないといけないようにも思いますよ。

マセキの内村さんは人吉町出身みたいですし、欅坂との縁も納得出来ます。お水の制御は確実にその筋の方がお金やしがらみでもブレないその筋なり神社仏閣なりがその地で出来るといいなあと思いますよ。
九州どうにか復活して欲しいです。
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