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九里氏の歴史の始まり(近江国編)

2018-01-04 | 九里【まとめ】

九里氏の始まりについて、今まで調べてきてわかった事と想像をまじえて書いてみようと思う。

大江維光と中原広忠のどちらの系図にも書かれているのだが、維光ー親光ー親季・親厳(隋心院)・朝親 叔父が親憲(美作守)
                            広忠ー親光(飛騨守)-親厳(隋心院)

親厳
大江親光男〔親光は系図纂要には中原広忠の子としても記載されている〕。中原広季猶子。号越後僧正。号唐橋〔諸門跡譜作号広橋僧正云々〕。法務。大僧正。随心院。東大寺別当。 仁平元(1151)年生。嘉禎2年11月2日(ユリウス暦:1236年12月1日)寂〔諸門跡譜作10月。系図纂要作12月〕。

親厳
親光〔*尊卑分脈作大江維光男、或中原広忠男〕男。中原広季猶子。法務大僧正。号唐橋〔諸門跡譜作号広橋僧正云々〕。号越後僧正。東寺一長者。小野。仁平元(1151)年生。嘉禎2年11月2日(ユリウス暦:1236年12月1日)卒〔諸門跡譜作10月。系図纂要作12月〕。

中原系




大江系


上記の系図の中原系の方に親光の息として3人書かれている。その「朝親」が=「美作朝親」であり、「蔵人」と書かれている。
後には「本郷」氏となって若狭国大飯庄の地頭となっていく系であろうと思われる。

本郷氏は今まで3つの可能性があると言われてきたようである。それは村上源氏から出てきた系、桓武平氏から出てきた系、清和源氏から出てきた系であった。
しかし、この【中原朝親】なのではないだろうか。叔父の親憲から美作守を譲ってもらったのではないだろうか。

そうだとすれば、大江広元・中原親能との関係もごく近く(従兄弟)鎌倉幕府の中心にいたとしても不思議ではない。

そして、近江国の九里のあった場所は、隋心院領だったところなのである。
親厳がこれだけ隋心院とかかわりがある人物であったことからも、九里のいた近江八幡の「佐々木本郷」が隋心院領であったとしても不思議ではない。
本郷城・久里城・九里城・九里村であった場所だ。

さらに因幡国の富城郷は時代が変わって1300年代ではあるが気になることがある。
本郷氏の中で、矢部氏に養子に行った者がいた。矢部定政である。
その人が、因幡国の富木(城)庄にも所領があったと書かれている情報があり、まさにその因幡国の富城庄(郷)は蓮忍・常忍の所領でもあり…(九里蓮忍=富木蓮忍ならば!)
同じ土地に関わっていることになる。(年代は本郷矢部氏の方が後世)

南北朝時代 wikipedia 矢部氏より
建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇側に対して背くと、矢部氏は波多野氏などと尊氏側にくみした。その後、尊氏方の山名時氏が守護に任じられると他の国人と共にこれに従った。
この他にも、暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。

押領ではなく、元から持っていた土地と考えたいが…

それに偶然にも、日本全土の中で「富木郷」という場所名があまりにもピンポイントなので、これは譲り渡しで代々受け継がれてきた土地と考えたい。
と、すれば 中原(大江)から美作朝親、それから近江国佐々木本郷に住み着いた者(九里)、若狭国大飯庄に赴いた者(本郷)、因幡国富木郷へ赴いた者(富木)、他に分かれたのではないだろうか。

もともとは中原氏であるということで、一応「近江国御家人井口中原系図」の中に入っていたのではないだろうか。







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