寛政重脩諸家譜: 第3輯の「永田氏」に以下のように記載があった。
湖西から湖東ではなく、湖東から湖西へだったのか!!
さらに佐々木哲学校の記事に以下のようにある。
http://blog.sasakitoru.com/201112/article_1.html
高島衆の永田氏惣領家は「四郎」「伊豆守」を名乗り、湖上交通を支配して六角氏からは自立しており、六角氏文書では「永田殿」と敬称された。
また六角氏重臣永田備中家は仮名孫二郎が、愛智郡香庄所務を六角高頼から安堵された永田源次郎と連続しており子孫と推定できる。
六角氏近臣団の一員として戦国期に急成長し、備中守高弘・備中守氏弘・刑部少輔某などが見え、六角氏式目の連署人に永田備中入道(賢弘)・永田刑部少輔(景弘)が列している。
織田信長の近江侵攻で、刑部少輔景弘は後藤・進藤氏らとともに観音寺城にこもって信長に呼応し、以後は江州衆として織田軍の一翼を担っている。
それに対して永田惣領家ら高島七頭は幕府奉公衆として独立した勢力を維持し、足利義昭政権でも奉公衆として、三好三人衆が義昭邸を襲撃した際には高島七頭が撃退している。
しかし信長に対抗して没落し多くは帰農したが、永田氏は前述のように護正院主を輩出して権益を維持した。また江州衆として織田軍に編成された永田刑部少輔は相撲奉行も勤めたことが『信長公記』に見える。明智光秀の乱で没落したが、のちに徳川家に仕えて幕府旗本として存続した。
また平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり、尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである。永田氏と長田氏は混同されることが多く、とくに永田氏の本貫が『寛政重修諸家譜』に見られるように高島郡永田ではなく蒲生郡長田と思われ、また江戸時代には歌舞伎の演目でも佐々木盛綱・高綱兄弟が登場するほど佐々木氏は人気があったことから、長田氏の子孫も佐々木永田氏を名乗り、四つ目結紋を使用したと考えられる。このように永田氏のすべてが、必ずしも高島七頭や六角氏旧臣の永田氏とは限らない。これが系譜研究の難しいところである。
永田氏系図
胤信┬長綱(三郎左衛門)─┬有綱(三郎)
│ └長隆(四郎)
└貞綱(四郎)─長信(四郎)
【参考文献】
①西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、2006年。
②小風真理子「戦国期近江における湖上ネットワーク」史学雑誌103(3)、1997年。
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なるほど、長田氏と永田氏、お互いの良いところを似た苗字のために享受しようと境界をはっきりとはさせなかったみたいに思える。
私は、長田氏と永田氏の間にも婚姻関係があったため境がなくなっていったのではないだろうか?とも思う。
長田氏は他にも松下氏・建部氏・富永氏等佐々木庶流の中とも婚姻関係があり繋がっている。
水神って事で考えると湖東は山と稲作と風神も居ます。
湖西は仏教と河童そして新たな文化との融合で水神としては湖東のが守られていそうですけど世代が違うようにも。湖東は修正が多いように思いましたが湖西よりも古い物がありそうにも思います、考古学での遺跡でも。大規模になったのが湖東が先で、ピンポントの小さい地域では同時代でもあったようにも。
琵琶湖の中の島も平家源氏とありますけど両方関わる何かがあるようにずっと思ってますのでヒントはありそうに思います。
琵琶湖自体は相当歴史があるので関東から見たらたかが一瞬の違いを探っているようで難しいですけどね。
大津っていうと湖東のイメージですけど、エリアとしてはかなり広いですよね。そう思うと大きく捉えて細かくみていく方が無難に感じちゃいますね、県境とかも取っ払って。
湖西の遺跡ってあまり出てこないのでちょっと探ってみます。湖東には環濠集落が出ていないのか?それも気になります。環濠集落があれば旧石器にも繋がりやすい気もしますし。低い土地の方が遺物もお水があり残っている物も多そうにも思います。
日本の歴史も平安時代からしか情報がないですけど奈良時代ももっと昔も人が居たならば歴史には出てこないけどそれぞれの地域で進化して生活していたはずですよね。基本は食糧需要で地形にも関係して人間動くかよっぽど住みにくい理由があった以外には動かないとも思うし、お水の量や地殻変動も含め動きが見えてくるといいですね。奈良も含めて遺跡が重層化されている事も多いため、見えにくい所にも形跡が見えてくるでしょうけど知っている方はいたはずなので古代の方の動きで発見が見えてきそうにも思いますね。
新しい発想ありがとうございます。
長田氏は丹姓でもあるそうで、木田氏とも関係があるとか。。。
今、記事にしております。
東国より近江湖東、それから湖西となるのかもしれません。
やはり古い!一族です。