http://himagine1110.web.fc2.com/keizu/hatano.htm
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/67d4882023073c50d515e43ecd8d8628
(近江国坂田郡史)
「經秀代々豊浦庄の知行を相傳す,撟本の合戰に討死し、其の子又太郞成遠、長じて足利義詮に仕へ、後光胺院、雜を近江にへられ、始めて此の地に移住し、常樂寺村を本據どす,氏成、建武元年八月、遠州子氏成は彥三郞ど稱し、正虔二年ョほ父の軍功」とgooglebooksそのままコピーしてみた。
意味不明の箇所もあるが、最初の経秀代々豊浦庄の知行を相伝す。が、一番重要な部分と思われる。
真野氏が藤原氏と関係が深いと聞いていたが、其の藤原氏とは藤原氏秀郷流であったのかもしれない。
まず、日本研究のための歴史情報 【深尾隆太郎】氏の部分にある その家の始りの箇所が大事と思われる。
「當家は近江源氏眞野太郞定義の嫡男刑部行信の後にして六世を經て深尾重良に至り高知藩祖山内一豐に仕へ其客臣となり土佐國佐川一萬石を食む更に十世を經て重先(鼎と稱す)に至り維新の際勳功あり其孫重孝明治三十九年特旨を以て華族に列し男爵を授けらる卒するに及び嗣子なし」
http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-18860
【深尾系図】
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html
系図を見ると、真野定平ー重定ー信泰ー時泰ー定義ー高義(深尾刑部丞 1290-1353年)ー行信
其の高義がちょうど浅小井師方(北条師時の猶子)と同時代のようである。
この系図のよると行信から、行信を勘定に入れず九世代あとに重良が登場する。深尾重良(1557‐1632年)(山内一豊に仕える)
61番の深尾掃部元次が、後に中山法華寺若宮の所領を安堵される。
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ここでは、今度は山内氏サイドから、又 深尾氏サイドからと、比較をしてみると‥‥
わかりにくいかもしれないが、色の変わっている名前を見ると氏と氏の関係が見えてくる。
更に、深尾系図の上にある文によると「 文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕ふ。」
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豊浦庄と関係があると思われる【波多野経秀】の始りは、佐伯経範のようである。
経範は「公光の実子又は佐伯経資の子で公光の娘婿」で、その一代後が波多野経秀である。
その佐伯経資は、前九年の役(黄海の戦い)で討死とある。
代々知行を相伝とあるので、もともとは佐伯氏の所領であった可能性もある。
波多野経秀ー秀遠ー遠義ー義通(1107‐1167年)…とあり、其の義通の妹の嫁ぎ先が源義朝で、朝長を産む。
其の後中原某に嫁いで中原久経が生まれたという事になる。
森岡浩先生の系図を貼らせていただくと、公光の三人の息か婿が、其々佐藤氏・波多野氏・伊賀氏の祖と成る。
其の中原久経の裔が九里の祖である「九里太郎経久(沙弥蓮忍・蓮忍入道)」であろうと思っている。
この久経は文書では、時折「経久」を記載していたために、ことが複雑になったのではないかと思うが、大江広元(1148-1225年)と同時代を生きたのは、中原久経であろうと思う。
私の予想では
「久経―政経(三左衛門事件・一条家家司 後 近江国伊香郡)・弟 経任(橘次)ー経久(九里の祖)ー経重 ・・・・」である。
久経1146‐7年あたりに生まれ、政経1166年あたり、弟経任1168年、経久1188年あたり、五男常忍1216年と予想している。
経任は橘次となっており、予想では「三崎庄【橘樹荘】」と関係ができたためと思われ、佐竹義政の婿となった「片岡経春」の弟分として入ったのではないかと思われる。
何故かというと、この佐竹義政の父は佐竹隆義 で、母が陸奥押領使清衡女であったため、藤原氏秀郷流との関係もあって養子となる機会を得たかと思う。その前にこの経任は鹿島神宮の関係で片岡氏と名乗っていたかもしれないと思っている。
そして、経久は因幡国の在庁官人として1200年代に赴任し、1216年常忍が生まれる。
そして1249年あたりに東国へ戻ってくる。
経久の妻は千葉氏の裔であり、且つ土岐氏とも関係があったのか、その後経久の裔は近江八幡の船木庄の地頭と成る。
経久は、北条泰時に一万石を賜っているようである。(もしも片岡経久でもあるならば‥‥)
常忍は五男であり、父と共に東国に戻り、千葉氏の被官として執事・公文役として働く。
日蓮との出会いから支援者と成り、自宅を日蓮上人に提供する。中山法華寺若宮(奥の院 常忍自宅)は、後に深尾元忠の系の元次に所領として宛がわれている。
佐伯氏・波多野氏・山内氏周辺の系図
わが家の九里、「榧之内十文字」という変わった家紋だが、波多野氏も「丸に抜け十字」であり、この「十文字」も意識していたのかもしれない。