藤原行清の註には「宮大蔵少輔実清六世」とある。
二階堂行清ともなっているので、良く調べないと…
六世とあるので、清兼ー実清からどのように二階堂氏につながるのだろうか?
上記の「隠岐流常陸家の二階堂行久の子 」がヒントになるのかもしれない。
隠岐流二階堂氏(wikipedia より)
鎌倉時代の二階堂行政の子・行村の流れで鎌倉時代中期から建武政権、室町幕府にかけて執事、評定衆、検非違使、高家として活躍した。細かく分けると、行村の子である元行を祖とする「隠岐家」、同じく行村の子である行義を祖とする「出羽家」、同じく行村の子である行久を祖とする「常陸家」、同じく行村の子である行方を祖とする「和泉家」、行義の子である行有から分かれた「備中家」(広義の「出羽家」に含まれる)に分けられる。
二階堂行久:元久2年(1205年)、二階堂行村の子として誕生。寛元元年(1243年)、出家し行日を名乗る。
建長元年(1249年)、評定衆となる。『吾妻鏡』には寛喜2年(1230年)12月9日から弘長3年(1263年)正月18日まで記載がある。文永3年(1267年)、死去。
建長元年(1249年)、評定衆となる。『吾妻鏡』には寛喜2年(1230年)12月9日から弘長3年(1263年)正月18日まで記載がある。文永3年(1267年)、死去。
そして、其の二階堂行村の姉か妹に
伊賀朝光室(北条義時継室伊賀の方の母 )がいて、この伊賀朝光の娘が結城朝光の室となっている!
つまり、二階堂行村の姪が結城に嫁いだこととなる。
結城朝光の母は寒河尼であり、また宇都宮・中原氏が見えてくる。
しかも、此の伊賀氏は藤原秀郷流伊賀氏である。