佐々木哲氏のメルマガの中に【近江国伊香郡の片岡氏】の記述があったので、一部ご紹介したい。
~佐々木広綱の子孫
広綱の男子には山城孫太郎左衛門尉惟綱(万木氏)、山城二郎左衛門尉為綱(葛岡氏)、勢多伽丸(御室稚児)があり、女子には伊賀光綱室があった。
山城二郎左衛門尉為綱の子孫は葛岡氏を名乗り、長男の太郎左衛門尉為定は越前佐々生保(福井県越前町佐々生)を名字の地として佐々生氏を名乗り、次男式部丞清綱は葛岡氏を名乗り、さらに三男の三郎左衛門尉信成は近江国伊香郡片岡郷を名字の地として片岡氏を名乗った。
葛岡の名字の地は不明だが、また越前葛岡村(福井県越前市葛岡町)には為定という字名が残っており、佐々生氏を名乗った為定が越前葛岡村を領していたと推測できる。さらに為定の孫のひとり三郎頼直は平田氏を称しており、伊賀平氏の平田入道家継の跡地(没官領)である伊賀国山田郡平田郷を領したと考えられる。頼直の名乗りは、北条時頼の諱字を給付されたものだろう。
「江州佐々木南北諸士帳」志賀郡には「日吉城主 佐々木随兵 葛岡式部清綱」とあり、為綱の二男清綱の記述があり、葛岡氏の本拠が志賀郡であったことがわかる。
これで広綱流佐々木氏が、主に近江志賀郡・高島郡・伊香郡・越前今立郡・丹生郡と近江から越前・日本海にぬけるルートに分布していたと分かる。さらに伊賀平田郷を領して東海道も抑えた。
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~とのことで、佐々木広綱が1221年に没しているので、その周辺の頃であろうと思われる。伊賀光綱室と上記にあるが、その伊賀光綱は14歳で父光季と共に没している。
伊香郡片岡氏と、もともと開発領主であり、伊香郡に住んでいた可能性のある江州中原氏が婚姻関係でつながっていく。そう考えられる。
とすれば、九里浄椿が「片岡桂嫩」とよばれていた事とも繋がってくるのかもしれない。
さらに浄椿と九里氏が六角佐々木氏に攻められた後に伊勢の員弁周辺に逃げ込み、また片岡氏と名乗り、そこから蒲生氏の配下に入り込んだとするならば、一本の線となるような気がするのである。
その片岡氏が岡氏を名乗り、岡田氏となっていく。
そして町野氏を妻に娶り、町野氏と名乗り始める。
次の記事で書くが、町野・河端という兄弟が九里氏と関係があるのでは?と思っているのだが、宇陀・丹波柏原藩に関係する九里氏ではないと思われる。他の藩の九里氏である可能性はあると思う。
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