森浩一先生の言葉を見つけた!
「前方後円墳が築かれはじめても、ごく初期には三角縁神獣鏡はなく、後漢時代後・晩期の中国鏡が副葬されている発見例が最近増えている」(考古学へのまなざしー地中から甦る本当の歴史 1998年出版 大巧社)
「後漢時代後・晩期の中国鏡」は『様式』のことであって、制作年代と即断してはいけない」そうで、久里双水古墳の鏡の場合は盤龍鏡やそのデザインのこととなるのではないだろうか?
下記は、科学的なアプローチによる分析である。
漢式鏡の化学的研究(4) 馬淵久夫 著
http://www.jssscp.org/files/backnumbers/KandSvol66_1.pdf
後漢時代には,徐州(現在の徐州ではなく,山東省・安徽省から江蘇省にかけての広い地域)に
までこの原材料が流通していた可能性がある。さらに三国時代になっても,徐州、などの鋳造地(形式的には魏の領土内)に流れていったかもしれないからである。
・・・漢鏡 7 期第 l 段階 (2 世紀後半)に徐州系統の小型鏡(径 10 cm程度)が作られたことを推定している。
この論文中の様々な表の中から九里・久利・久里氏と関りが深そうな場所、且つ、盤龍鏡のある場所を探してみると【滋賀県 大津市 和邇大塚山古墳】であった。
過去に和邇氏にこだわっていたことが報われるかもしれない!
https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/a0308eb423700e71895231d3709b611c
標高185.8mの曼荼羅山の山頂北側に築かれた全長72m、後円部径50mの前方後円墳で、眼下に小野地域を一望する。明治40年(1907)に地元の住民によって発見され、後円部から鏡や勾玉、刀剣、甲冑、土器などの大量の副葬品が発見された。築造年代は、古墳時代前期の半ばから後半と推定されている。
和邇氏との接点!