九里 【九里】を探して三千里

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水野光信の息「三郷」 水野庄次郎 浅香佐馬助となる! 情報を集めてみた。

2020-09-17 | 雑記





今まで、探しても無いとあきらめていた人物が下記のページに載っておりました! ありがたや!
しかも加賀藩の浅香氏ならば、加賀藩の九里とも婚姻関係あり!



しかも湯浅氏と云えば、和歌山!紀伊国在田郡湯浅庄! 熊野別当家等、様々な関係が浮かび上がる。
そこと、水野氏が繋がるとは、なんという不思議!
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuasa_tan.html

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 落穂集(前編)-徳川家康一代記― 第十巻 様より

http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_otiboa10g.html
この戦いの時、 大垣勢の中に白しなへの指物を持つ者がしっかり踏留まって殿(しんがり)を
勤めながら退いて行く。 その振舞いが勝れているのを内府公が岡山の陣より見て、あの
白しなえの振舞いを見よと側衆に度々云った。 外に一人白い大立物を持った武者も白しなへ
と同様に見事に働いた。
後日に両人の名前が判明したが、白しなへは林半助と云う石田家の使番の侍で、残る一人は
浅香庄次郎と云う。 浅香は木村伊勢守方で児小姓を勤め十八歳の時五千石の知行を(p325)
取り、奥州で伊勢守が一揆に囲まれ苦労した時に忠義の働きをした者である。 

木村の身上が果て後石田方へ呼ばれ客人分の待遇で仕えた。 この戦いの時は石田の勘気を蒙っていたが
てんの皮の羽織を着、銀の大釘の前立物を担いで働いた。 中村家の梅田大蔵と云う者が負傷
して引下がれないのを突き伏せて首を取って帰り、大垣城の角矢倉の上に秀家と三成が居る
前で、水野庄次郎です、この首を取ったので御勘気をお許し下さいと云った。 
矢倉の上から
三成は、手柄を認めたので勘気も許す、 ご苦労だが先手に行って部隊を引き上げられよとの
事で、庄次郎は梅田の首を若党に持せて城内へ行かせ、自身は合戦場へ戻り、林半助と共に
殿を勤めて部隊を引取った。 関ヶ原一戦後は浅香左馬助と改名し、加賀の前田利長から
声が掛ったと云う。 石田方に属した時は水野庄次郎と名乗った由である。


浅香三郷の墓
左馬助・出雲 水野庄次郎という名で有名。経歴には諸説ありますが名古屋山三郎・不破万作とともに戦国三大美少年に数えられ、織田信雄を経て蒲生氏郷に仕え安積城主。蒲生家大幅減封に伴い石田三成に仕え関ヶ原の戦いで奮戦し敵ながら家康より賞賛を受けています。その後、慶長19(1614)年に前田利常に招かれ大坂の陣に出陣し3750石を知行し馬廻頭を務めますが、この人も派手な装束を好んだ傾奇者だったそうです。 



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