もう少し、息長氏と依知秦氏に詳しい記述が見つかり次第アップします!
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ひっかかっていた謎が解けました(^_-)-☆
『日本書紀』に「応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[3]を秦氏の祖とする[4]。」とあります。
秦氏は一つの血族ではないことは気づいていました。
武内宿禰(大国主久々遅彦)の長男波多八代宿禰が半島南部で配下としていた養蚕・機織りや土木や演芸などの技術者・技能者集団だと思います。その中には百済人(倭人ですが)も居たのだと思います。
秦河勝の子孫観阿弥・世阿弥らの猿楽(能楽)のテーマは祖先である大国主が活躍した建国の史実を伝えることだと突き止めています。
ですから不比等は「日本書紀」で秦氏の出自を百済王にしたかったので弓月君のあり得ない話を創ったのだと思っています。でも、七世紀に日本に帰化した百済王氏は秦氏のそのような出自の創作を受け入れて秦氏を百済王氏の祖ということにしたのだと思います。
しかし、秦氏の祖は武内宿禰だと推理しているので、枚方市百済王神社では牛頭天王スサノヲつまり武内宿禰の祖を祀っているので謎でしたが、これで分かりました(^_-)-☆
八世紀の光仁天皇に嫁いで桓武天皇を生んだ武寧王の子孫高野衣笠とその子孫に大国主に因む高野氏を与えたのも同じ話だったようです。でも、馬韓のころの伯済国(村レベルでしょうが)の王(村長)はその昔辰韓に王(村長のまとめ役か?)を派遣していたという話があり、新羅が古くは伯済国とのつながりがあるので高野氏を与えたのかなと考えてはいました。でもそのような史実があったので弓月君の話が作られたのでしょうね。
これで、すっきりしました。いつもいつも、いいヒントを頂き心より感謝申し上げます(^^;)
それから、台与の息長氏は3世紀までは近江一帯を支配地にしていたようです。だから伊勢遺跡の周辺はお稲荷さんだらけですよ。4世紀になって近江八幡市辺りから湖西にかけて和邇氏に譲ったようですよ。
どうもありがとうござ(;^ω^)
さすが、見事なご推察!
観阿弥・世阿弥の「テーマは祖先である大国主が活躍した建国の史実を伝えること」
「七世紀に日本に帰化した百済王氏は秦氏のそのような出自の創作を受け入れて秦氏を百済王氏の祖ということにした」
「台与の息長氏は3世紀までは近江一帯を支配地にしていたようです。だから伊勢遺跡の周辺はお稲荷さんだらけですよ。4世紀になって近江八幡市辺りから湖西にかけて和邇氏に譲った。」
すごいです。
私の方こそ、ヒントいただきました。
ありがとうございます!!