堅桃斎を思うと、どうしても思い出されるのが、1595年に自害した『前野長康』と、その息『景定』
景定の妻と息子娘は洛北の岡田氏に預けられている。
そして、その妻とは細川忠興の娘『御長』であった。
月庭斎は、その頃何処にいたのだろうか。
洛北ではなかったろうか。
藤堂が仲介となって、その岡田氏が御長とその子どもたちを匿う事となった。(武功夜話)
しかし、細川忠興の孫となるので、緊急で洛北に匿ったとしても、その後はもっと安心な場所を確保したのではないだろうか?
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この堅桃斎(重忠)の弟は、信秀・信長についた当時の『小豆坂七本槍』の一人だそうである。
重忠の甥に重善がいて、善同につながっていくのではないだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%96%84%E5%90%8C
重善の息に岡田重孝がいる。(またの名は 直景、秀重、直孝、吉冬)
柏原藩の系図では、重善=重孝となっている。
岡田重孝は信雄に誅されてしまい、その妻・息たちもほとんどが誅される羽目となったらしいが、
もしかすると、其の生き残りに岡田政直がいて、大和に潜み、その後信雄公の時代となり重孝の裔を隠すために九里となったのかもしれない。
が、何れも仮想である。
他に考えられる岡田氏の線は、
京極には佐々木流岡田氏の祖となる『秀隆』がいる。高氏の孫であったはず。
後に蒲生氏の配下に入り、片岡・岡…となり、その後岡田に復姓の系か?とも言われている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d38c9b7f2e403c01c48d29df6b70c6e0
さらにもう一つ、下総の原氏と関係する岡田氏。
キリシタンで殉死となった『原胤信』
その祖父原胤栄の裔であるので、繋がっているが書けなかったのだと思う。
原氏から岡田氏と、突然名を改めている。(岡田氏の預かりとなったか?)
たしか、家康の小姓として入る際に、岡田氏の許に入ったと思う。
ただ、こちらは忠兵衛である。1615年に原胤信追放となる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/30f365fa8076861f6c3f4f4091a7fd7f
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/14c0ee4e7774b6b68c936e0db618fef5
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話を戻す。
1558年信雄生まれる 1575年岡田重綱生まれる
(叔父の岡田重孝=重善 誅される1584年 ~信雄26歳時)
重綱11歳(1586年から) 信雄公に仕える。
各地に移りながら、大和宇陀松山藩主となる。(1615年)… 信雄 57歳 岡田重綱 40歳
やはり、わかりそうでわからない。
いずれも接点はあるので、悩む。