良峯姓前野氏から養子に来ている【九里十助】
佐々成政の姉(妹説もあり)が嫁いだ前野又五郎吉康(=宗直…柏原織田家臣系譜系図では)の息であった【十助】が『九里』に養子として入ったのであった。
九里十助は佐々成政に仕えている。
そして佐々成政に仕えていた中に【岡田善同】がいたはずである。
岡田善同は織田信雄に誅された岡田重孝の弟である。
つまり、善同は、信雄の近臣【岡田重綱】の叔父である。
(本当は善同の伯父『月庭斎』がいて、その息が重綱)
入り組んだ関係となっている。
岡田政直(初代九里政直)は、月庭斎が育てて、いくつか年上の重綱が面倒を見た‥‥のような関係であったような気がしている。
岡田重孝が誅された際には、重綱は9歳であった。重綱、11歳には信雄に仕えるため、2年間だが、
政直と一緒にいたのではないだろうか?
月庭斎の息であったといわれている重綱と共に「岡田政直」は育った可能性もあるかもしれない。
もしかすると重綱自身も、重孝の息であったかもしれない。(?)
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さて、前野又五郎からの養子であった九里十助の息に六左衛門・孫に七右衛門といた。
九里八郎右衛門政直は、1622年には奈良懸宇陀郡志では九里又八(寛文二年)とある。
1622年時点ですでに「九里」となっていたことがわかる。
佐々氏と前野氏が結ばれ、佐々氏に仕える岡田氏がいる。
佐々成政を中心として、【前野氏と岡田氏】も婚姻関係が結ばれている。
洛北の岡田氏が前野長康の妻子どもを匿うことにもなる。
その密な関係の中に、前野から養子に入った「九里」も入り込んだのではないだろうか?
(間には後に永田氏も絡んでいると思われる。)
佐々・前野・岡田・九里
もしも、岡田政直が「九里」という苗字を選んだとするならば、
何処かでその名を聞き知っていたからである。
私の元同僚に、佐々成政ファンの歴史オタクが居て、よく飲むと佐々成政の話を聞かされました。その後は退職して実家の幼稚園の園長になっているはず。
kunorikunoriの記事を読むと、岡田家は築城のプロと思えますね。大津に穴太衆と言う石垣プロ集団がいますが、その他、城設計のプロもいただろう?と言う米原の築城専門家のblogをいつも見ています。堀引水、城壁設置と多種多様に有り、そのプロ集団を統括する武士は、引く手数多だったのでは?
設計・施工、管理と現代施設でも重要ですね😁
重忠と見て、畠山?とつい思いました☺️大河の徳川家康は特に関心が無く、当然、紫式部の準備をしています😃
昨日は、陰暦の2月15日西行忌でした。満月🌝を見て、そうだったじゃん😓と思った次第です😱
こちらは、明日が花粉飛散日なので、春愁の人が多いのですが、私は、春宵一刻値千金🍶🍷🍺です😱
コメントありがとうございます!
西行忌でしたか。
もう桜咲いておりますか?
北海道の芽はまだまだ堅く、開花まであと一か月はかかりそうです。
さて、藤堂氏が築城のプロ!
そして岡田善同も、そうだったようです。
クレーンなどの機械もない時代に人力での築城、
石垣造りも、プロってすごい!!と思い、尊敬しています。
現代の宮大工さんも♡すてき。
佐々成政、振れ幅が大きくて私はなかなか付いていけませんが、「さらさら越え」など、思い立ったら吉日というか真っ直ぐで、そこが武士っぽく感じます。裏まで考えず、なんか直球で。
そのために、秀吉と相性が悪かったのかもしれません。
『佐々氏の好きな園長さん』に、どうかよろしくお伝えください。(九里と養子縁組が二回あったことは確かですので!笑)
実物のお宝ゼロの私ですが、佐々宗淳の兄の系が我が家に入ってきていることが宝です!
他にもお宝でてこーい!!という気分で「九里探し」続いています。
いま、他の方のコメントで大和宇陀の九里政直は岡田氏だということになっておりますが、
わざわざ「九里」を名乗るわけがあったに違いない!と思っています。
「九」は縁起が悪いですし、「クリ」は忍者だし‥‥このような苗字を名乗るには「訳」があるのです!と気合入ってます。