京都の古地図、いろいろな情報が詰まっていて面白い!
で、先日の「源頼政」のすぐお隣が「秀行卿」と書かれていたので、調べてみた。
「秀行」は「藤原秀行」のことではないかと…。そうなると、これらの地図は1142年よりも後の地図で秀行の父親が1240年に亡くなっているので、1200年代のものと思われる。
この「秀行」の父は「秀能」で、「藤原秀能」のwikipediaによると「鎌倉時代初期の武士、廷臣、歌人。藤原北家秀郷流の出身、父は藤原秀宗。
最初は内大臣の源通親に仕える。その後、北面武士として朝廷に仕えた。このように武士として仕えていたが、建仁元年(1201年)7月に和歌所寄人として輔任されている。歌人としても朝廷に用いられていたということである。
その後は検非違使大夫尉、出羽守と歴任し、承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。」とあり、母親は「源光基」の女となっている。そして父親は「藤原秀宗(和田義盛の弟宗実(宗妙)の子で、藤原北家秀郷流の養子となった。」とある。
ちなみに、兄に藤原秀康、弟に藤原秀澄がいる。
そして、遡ると、藤原秀郷~千常~文脩~文行~公行 の系のどこかに養子で入ったこととなる。
母親の系を遡ると、源光基~光信(為義と争い事あり。)~光国~国房~頼国〰頼光 となって、なんと、お隣の源頼政の系と同じところ(頼光)に行き付く。(頼政~仲政~頼綱~頼国)
つまり、頼国の息が、国房であり、頼綱であり…と兄弟になる。
秀行の祖母の父(曽祖父)が源氏であり、祖父は藤原秀郷流で、且つ和田氏ということになる。
この「秀行」は飛騨守として文書に出てくるが、系図では「左門尉、左兵尉、園明寺大殿侍所司、母は源秀数女」と東京史料編纂所データベースに出てくる。