【藤原兼光】
1145-1196 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安元年生まれ。日野資長(すけなが)の子。母は源季兼(すえかね)の娘。寿永2年(1183)右大弁兼参議,文治(ぶんじ)2年権(ごんの)中納言となる。右兵衛督(うひょうえのかみ),検非違使(けびいし)別当をかね,従二位にいたる。高倉天皇,後鳥羽(ごとば)天皇2代の侍読。建久7年4月23日死去。52歳。
【広橋頼資】
(ひろはし よりすけ)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家真夏流(日野家)、権中納言・藤原兼光の五男。
【広橋経光】
(ひろはし つねみつ)は、鎌倉時代中期の公卿。勘解由小路 経光とも。正二位民部卿、権中納言。日記『民経記』の記者。勘解由小路と号す。勘解由小路中納言藤原頼資の長男。母は従五位下源兼資の娘。
【広橋兼仲】
正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり、弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。
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ここまで来て、九里氏は少なくとも兼光以前の時代から、日野・広橋氏の下で地頭代や家司として働いていたことに気が付く。
兼光の母の実家である「源季兼」と父の「日野資長」はともに石州の「若山荘」を経営。
【源季兼】
源季兼
生年:生没年不詳
平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』
(五味文彦)
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この日野・広橋氏と九里氏の関係は一時的ではなく、続いていたのだと思う。
そして、兼綱の時代から足利将軍家とも繋がってくる。それが九里氏にも影響していたと思う。
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【広橋兼綱】
皇室と足利将軍家の縁戚となる
兼綱が養女とした広橋仲子は石清水八幡宮検校法印の善法寺通清の娘であり、足利義満の母紀良子の姉妹である。仲子は後円融天皇の生母であり、後円融天皇と足利義満は同い年である。このように、兼綱は皇室と足利将軍家の両方の外戚となったわけである。よって、四辻善成の姉か妹である智泉尼聖通が仲子と良子の母であり、この縁戚関係から善成が従一位准大臣、さらに内大臣、左大臣に至ったことと同様の処遇を受けて、兼綱は従一位准大臣となったのである。
【広橋仲光】
(ひろはし なかみつ)は南北朝時代から室町時代の公卿。従一位権大納言。勘解由小路と号す。准大臣広橋兼綱の息男。母は不詳。 子は兼宣、兼時、兼俊ら。日記『仲光卿記』が伝わる。南都伝奏として足利義満と様々な案件の折衝にあたったことで知られる。
【広橋仲子】
広橋 仲子(ひろはし ちゅうし/なかこ、藤原 仲子、紀 仲子 、延元元年(1336年)または延元4年(1339年) - 応永34年5月20日(1427年6月14日))は、室町時代の女性。女院。後光厳天皇の典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子(足利義詮側室、足利義満生母)、伊達政宗正室輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。
【広橋兼宣】
武家伝奏として室町幕府との交渉にあたり、その様子は日記『兼宣公記』に記されている。また、娘は後花園天皇の乳母となった。没後、内大臣を贈官されている。
だが、広橋兼宣と日野資教の争いは思わぬ形で終わりを迎える形になる。日野資教の子・有光は禁闕の変によって処刑され、代わって日野家の継承を許された広橋兼宣の子・兼郷も足利義教の不興を買って所領を奪われて一時断絶に追い込まれることになったことによる。
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この話はもう一つのブログ【九里一族】に出会う旅に出かけよう につながってくる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E8%8D%98
そして九里員秀が活躍していた「九里黄金時代」を築けたのも、この日野氏・広橋氏がいてこそであったのだ。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%93%A1%E7%A7%80/1
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%93%A1%E7%A7%80
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さらに、足利義澄が「九里に依って」来た理由も、そのつながりがあってのことだと思う。
更に近衛氏とのつながりもできていたようである。