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源季兼の息【源季広】

2019-01-08 | 日野氏

源 季広(みなもと の すえひろ)は、平安時代後期の貴族・歌人。醍醐源氏、源季兼の子。官位は正五位下・下野守。

経歴

父・季兼は藤原忠通の、子・長俊は九条兼実の近臣として知られ、子孫は九条家の諸大夫・信濃小路家として続くが、季広自身の官位は振わず、歌人としての活動が知られる。

久安5年(1149年)に六位蔵人(『本朝世紀』)、仁平元年(1151年)に左衛門尉に任ぜられて(『台記』)、同年9月4日に叙爵される(『本朝世紀』)。久寿年間に季広と改名。

保元元年(1156年)に松殿基房が元服するとその職事となり、侍所を管轄した。
後に基房の子・家房の乳父となっている。保元2年(1157年)に飛騨守となる。

基房失脚後の養和元年(1181年)に九条兼実の家司に召されて、文治元年(1185年)に下野守に任じられて一時任国に下向しており、その際に藤原頼輔と和歌のやりとりをしている(『続千載和歌集』)。
だが、この時期にはもっぱら、嫡男・長俊の活動が目立つようになる。

『明月記』正治元年9月8日条に「人云、季弘死去了、未聞其仔細」と記されている“季弘”が藤原定家と同じ兼実の家司であった季広のことであった可能性がある。

『千載和歌集』を始めとする勅撰和歌集に12首採録され、『続詞花和歌集』・『月詣集』・『今撰集』・『楢葉和歌集』といった私撰集にも多くの和歌が採録され、当時の歌合でも度々参加が記録されている。

~~~*~~~

季兼の子が、季広、藤原資長室 とあるように日野資長とは義理の兄弟である。

ちなみに中原(大江)親光も飛騨守であった。




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5 コメント

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季広は、 (自閑)
2019-01-08 19:13:51
(2) 源季広
 源季広は、平安末期から鎌倉初期の人で、千載集、新古今和歌集、続後撰、新後撰、続後拾遺、新続古今に各一首、新勅撰に二首撰歌されている歌人で、九条兼実の家司を勤め、藤原定家の日記「明月記」にも所々登場するとのこと。正五位下で下野守を勤めた。信濃小路家と呼ばれる系統とのこと。
 何故、季広が方丈記と関係があるかというと、新勅撰和歌集 巻第十 釈教歌に
   十二光佛の心をよみ侍りけるに、不断光佛   源季広
月影はいる山の端もつらかりきたえぬひかりを見るよしもがな
とあり、これが方丈記の流布本の巻末に記載されている。このため、藤岡朔太郎博士は方丈記偽書説を採られた。
https://s.webry.info/sp/jikan.at.webry.info/201409/article_7.html
と昔調べた事が有ります。
かなり推敲して結局ボツでした。
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エコール・ド・ジャポン (kunorikunori)
2019-01-08 20:28:29
自閑さま

「詩歌、有職故事の行長、和歌、管弦の長明などの才能が結集しないと文化の総合芸術である平家物語は出来ないのである。」という一文に感動しました。

私は1920年代のパリの芸術家たちが好きなのですが、日本にもありましたね!

鴨長明みたいな生活をしていないと、と言うか忙しく執事的な仕事をしている方が、方丈記を書いたとは思えないのですが‥‥

自閑様は、如何に思われたのでしょう?

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藤原行隆の息だったのですね。 (kunorikunori)
2019-01-08 22:22:35
自閑さま

教えていただいたpage、奥深くて、宝庫ですね。
西行と桜1・2〰番外まで、めっぽう面白く、「櫻」が待ち遠しく! 
ちょっぴり悲しい、はかなさが、ジーン。

その前に梅ですね。
梅は、目をつぶってますね、西行。

梅が香を谷ふところに吹きためて入り来ん人に沁めよ春風(山39)

梅が香にたぐへて聞けば鶯の声なつかしき春の山里(山41)

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写したものから元の本を推察すると言うものです (自閑)
2019-01-09 08:48:38
御覧頂きとても嬉しいです。
新古今和歌集の部屋で、資料集めし、花鳥風月で文を書き、校閲して完成と言う事です。加賀前田家方丈記は世の中に翻刻本が無い為、新古今でテキスト化しました。金沢に本があり気軽に写真撮らせてくれましたので。
方丈記の文と平家物語は近い関係にあるのは、昔から言われておりますが、3本の方丈記異本と一方本、城方本、源平盛衰記他の平家物語を比較した所、異なる方丈記の表記が元暦大地震などに出てくると言う矛盾が生じました。平家物語作者が、ある時はA本、ある時はB本を参考にすると言うような事はしません。
作曲は誰?と言う考察はされた事は有りませんので、中原有安に琵琶を習った鴨長明となります。大原の声明に平家琵琶は近いと言われており、大原に遁世し法然の弟子となった長明が曲調を写さない訳は無いと。
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大原の法然と平家琵琶、有安と長明。 (kunorikunori )
2019-01-09 10:56:34
自閑さま
方丈記と平家物語が近いという事を考えたこともなかったので、驚くばかりです。面白いですね!
法然の大原の声明と長明の琵琶、そして平家琵琶の話も、とっても魅力的です。

方丈記と平家物語ですが、
時代の空気やその時の芸術家たちの交流、刺激によってお互いに影響されることは、多分にあるとおもいました。
が、きっと、それ以上に似ているのですね??

音曲が細々とですが、伝承されているようですね。
音を伝承とは難しいですし、どうしても鴨長明にはならないと思いますが、伝承がなくてはもう想像もつかなくなってしまいますので、意義深いと思っています。

wikipediaに「2018年(平成30年)時点では三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけで、今井に弟子はいない状況である。平曲にまつわる文化を研究・伝承するため、武蔵野音楽大学の薦田治子らにより「平家語り研究会」が2015年に発足。かつては約200曲あったとされるうち現在まで伝わる8曲の譜や録音の研究、地歌や筝曲の演奏家による平曲の公演などを行っている。」とありました。

ドビュッシーやラフマニノフ他の映像がYou Tubeにありましたが、自分の想像を大きく裏切られる映像でした。良い意味でも、悪い意味でもなく、ただただ、えっ、という驚き!
想像の域を超えていて、、
今まで頭の中で創っていた物は、自分なりのドビュッシーであり、自分のラフマニノフであって、作曲家が頭の中で響いていた曲とは別物であったことがわかり…
ふと周囲を見ると、著名な音楽家であってもみな「自分流」でしたので、安心しました。

曲は、世に放たれた時から、もう変質していってしまうものなのかもしれませんね。


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