コトバンク「『平家物語』成立の背景には慈円の保護があったとも伝えられている。」
この意味を考えてみる。
信濃前司行長は九条兼実の家司ではあったが、信濃守にはなったことがなく、下野守であったそうだ。其の兼実の弟が慈円なので、知り合いであったのだと思う。
しかし、それだけでは保護するとまではいかないかもしれない。
保護とはパトロン的な事なのではないだろうか。
平家物語が出来上がるまで、何かしらサポートをしていた。
それだけの価値を慈円は認めていたのではないだろうか?
平家物語の作者に関しては、吉田兼好の徒然草に以下のようにある。
「この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。」
義経に詳しく、蒲殿には詳しくない人物。
生仏は武士にインタビューをしてその時の状況を聞き取っている。
作者に関して書いてはいるのだが、平家物語ができたのは吉田兼好が生まれるよりも前のことだ。
吉田兼好は弘安6年頃(1283年)に生まれたそうであるから、1185年に平家が滅亡と言われることからも100年近くも前の事なのだ。
慈円
生年:久寿2.4.15(1155.5.17)
鎌倉時代初期の天台宗の僧。没後13年目に慈鎮と諡された。『愚管抄』の著者,鎌倉時代初期の主要な歌人として知られる。父の藤原忠通は白河,鳥羽院政下に37年間摂政関白の地位を保ち,貴族社会の頂点に立ち続けた人物で,母は藤原仲光の娘。兄たちのなかで基実(近衛),基房(松殿),兼実(九条)は摂政関白に,兼房は太政大臣になった。永万1(1165)年,11歳で延暦寺の 青蓮院に入り,翌々年,鳥羽天皇第7皇子の覚快法親王の下で出家して道快と名乗ったが,養和1(1181)年に慈円と改めた。
(大隅和雄)
東京大学史料編纂所で「下野守行長」と検索ワードを入れると「椎岡下野守行長」が出てくる。
『玉葉』建久五年(一一九四)九月十七日条に「椎岡、下野守行長等なり」とあるから、その一、二年前には下野守に任ぜられたようである。
そして、建仁二年(1202年)の藤原定家の明月記に「作詩物」とあるので、その頃には出来上がっていたのかもしれない。
1194年 椎岡下野守行長の記載 ↑(玉葉)
*****
今朝ほど、なぜ熊野本宮横の大智庵が琵琶法師たちの集まる場所となったのかを考えていた。
昔は車の音もなく、遮るビルディングもなく、「音」が遠くまでよく通ったそうで、遠くの村での神楽の音なども聞こえるほどだったいう。
「音」は、遠くの人々まで集める効果があったと思われる。
とすると、熊野本宮の御師たちは、一か所に人々を集める効果的なことも考え、琵琶法師と共に全国を行脚したのではないだろうか?
共に行くことには、両方にメリットがあり、ウィンウィンの関係である。
【大智庵】が熊野本宮の元(洪水前)の場所のすぐ横にある事には、必ず意味があると思う。
琵琶法師の語る平家物語が全国に広まった事と、熊野本宮の御師とは、関係があると思う。
さて、椎岡に赴いた行長が生仏に出会い、この物語を語り歌にのせてみるというアイディア!
これがあって今の平家物語にまでつながると思うと、なんとすごいことを考え付いたのか!
今様なども流行ったことも関係があったかもしれないが。
語り歌と鎮魂とが重なり合った物語。
鎌倉時代の宝ですね!!
源季広の家は、信濃小路にあったとされ、その子孫は信濃小路家と呼ばれる。荒唐無稽ではあるが、もし行長が同じ信濃小路に住まいがあったとすれば、信濃【小路】前【下野】司行長という考えも成り立つのでは無いだろうか。
https://jikan.at.webry.info/201412/article_13.html
と京都の信濃と言う町名に住んでいたと推察しております。
慈円をエグゼクティブプロジューサー、行長をプロジューサー、各パーツを鴨長明らが、執筆したと推察しています。
定家を含め、五者が元久詩歌合の参加者です。
一人で書いたと言う固定観念があったのですが、3人での共著となると、楽しいですね。
何処かにその証拠が無いか、史料編纂所デジタルを探ってみます!
信濃小路の説も、ありそうな事と、思いました。
今、主人がリモート中で、Wi-Fi 細いので、明日か明後日に義経の感想を。🥲🥲
ピントが合わず、誰か?の確証は無いのですが。
をだまきのくりかへし観る埒もなや
(オダマキの花の季語は春ですが)
土日にやっと自宅のプチ改修が終わり、次に昨日・今日と祖母のマンションの塗装改修他が入っていて、バタバタでした。
直ぐ近くだと良いのですが、自宅からどんなに急いでも1時間半かかるので、、、
****
さて、一昨日は親能は出ていなかったかもしれませんが、あの義経の手紙は右筆が書いた物だったのではないでしょうか?
また、大姫と共にトンボとりをしていた、いつも政子の近くにいる側近は誰だろうか?と、調べますと…足立遠元(あだち・とおもと)でした。
***
義経は、闘いモードのスイッチが切れて、普通の人
になりましたね。
武士とは、ある意味そのようなスイッチを持っている人々であったのではないかと思いました。
頼政も、其の闘いスイッチをOFFにするために和歌が必要だったのではないでしょうか?
戦国時代のお茶もそうだと思います。
****
義経1159年生まれ、衣川1189年
30歳で散ってしまいましたが、世の中をひっくり返した人物であったのだなぁと、つくづく思いました。
平家と源氏が、長々と闘っていたら、どのようになっていたでしょうね。
アッ、という間にひっくり返った所に義経のエネルギーの大きさを感じています!