【中原友景】
7月20日の当記事の北面の武士に名を連ねていた「石見前司 中原友景」のことである。
この人物は近江国の中原氏の中でもとびきり文書が残っている。東京大学史料編纂所内に115件も。
もしかすると同姓同名が何名かいたかもしれない。(藤友景になっている嘉禄の友景は別人と思う。)
この友景は、石見と中原を繋いでいる。
また、三善と中原を繋げている。
近江国御家人井口中原系図の中の中原成行の裔と思われるため、近江とのつながりもある。
景康ー友景ー範景ー景則 と思う。
友景の父景康
景康の息光氏
という事は友景の兄弟に【中原光氏】がいた。あの、光氏、狛光氏ともいわれている人物!
以前調べたので、当ブログ内にも多々情報が残っているはずである。
さらに、重要なのは中原有安の養子に景康(景安)とあるので、この友景と光氏の父のことではないかと思う。
そこで、中原有安は元は清原氏
石見国と繋がってる。
つまり、成行の方の系に三善・大江・さらに清原の婚姻・養子縁組関係がある。
これは、九里と同じである。
九里の祖は中原久経と思っているのだが、経行の方ではなく、成行の方に近いのではないだろうか?
しかも、藤堂氏とも同じ繋がり、更に浅小井と思われる「朝越城主」
成行の系の中に久利がいた事にもなりそうである。
中原成行(愛智郡大領)ー隆行(肥後守)ー依景(菅)-吉景(藤堂)-景基(藤堂)ー景真(菅)-景康(藤堂)-友景(後嵯峨院 北面)-宗景(後伏見院 北面)ー景氏(石見守)-政景(後田融院 北面)ー景盛(藤堂太郎)-景勝(右京亮)-景安(右京亮)-景良(将監 朝越城主)
なぜ、成行の系に石見国が入ったのか、しかも景康の後に国司になっていることを考えても、中原有安の系(兄は頼業・父は祐隆!)とつながりがあったからではないだろうか?
繋がった。
清原定隆が石見守であった。(1072年卒)
そこから、中原友景につながるまでには長い期間があり、どうなっていたのかは調べなくてはいけないが、
ともかく清原から中原に養子に入った【有安】
有安に養子に入った近江国の【中原景康(景安)】
其の景康の息【中原友景】が北面の武士であり、石見守であった時代もあった。
このように解釈できるのではないだろうか?
近江国御家人井口中原成行の系図と清原・中原有安とつながり、さらに有安を遡ると石見国の国司につながり、
そこには久利郷があり、清原氏が久利と称するようになった。
久利を考える際に、菅原氏との関係を見てみると、
久利は菅原氏と古くに縁組があった。菅原善主の系である。
菅原善主の裔に養子に入った【久利民部真利】の年代は、菅原善主の100年後あたりと考えられる。
善主は852年に歿している、遅くに養子に入ったはずなのでアバウトなのだが、952年あたりには存在していた人物と考える。
この菅原氏に入った久利氏が石見国に入り、後に清原と同化していったのかもしれない。
一つ進んだように思える良い一日であった!
貴 人 と 楽 人 - 中原有安 略伝-
石 田 百合子 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/toyoongakukenkyu1936/1989/53/1989_53_43/_pdf
胡琴教録の基礎的問題
- 成立時期・編者・編纂態度-
森 下 要 治 著
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26181/20141016153542329446/kokubungakukou_140_1.pdf
清原氏(広澄流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F_%28%E5%BA%83%E6%BE%84%E6%B5%81%29