景安はもと厳島の神官の一族であったが、中原有安がその才能を愛でて養子にした者という。
もと吉備津宮の神官のこにて侍けるを・・・という説もある。
中原景安らの興味深い逸話があり、中にも鴨長明の秘曲づくしの話は最も有名である。
(文机談は景安が書いたのだろうか?)
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1248.html
以前にもご紹介したが、鎌倉時代の音楽に関する論文
中世都市鎌倉と地下楽家中原氏 中原有安・景安・光氏の系譜と活動を中心に 渡邊浩貴 著
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr046_2019_watanabe.pdf
景安は、多久忠に養子に入り楽統を継承した。
ここに、「多氏」が出てくるのだが、この多氏は鹿島神宮とも関係があり、更に片岡氏とも繋がってくる氏族と思われる。
多氏はもともと大野東人以前に蝦夷討伐の為に東上している。
伊賀國目代中原久安
1292年正応五年
景康に戻ると以下のように大江久康に神楽の歌曲を伝授しているようである。
三善長衡(コトバンクより)
没年:寛元2.3.25(1244.5.3)
生年:仁安3(1168)
鎌倉時代の文士。西園寺公経の家司としてその興隆を築いた。父の算博士行衡の跡を受けて算道の長者となるとともに,公経の家司となって承久の乱(1221)では後鳥羽上皇の挙兵を幕府にいちはやく知らせ,また幕府軍の上洛を迎えた。その後は公経の「専一無双の者」と称されて主税頭や陸奥守となり,幕府,朝廷にもその活動はおよび,さらに日宋貿易をも手掛けて富は「陶朱の類」とうたわれた。出家して法名は理繆。長衡以後,三善氏は代々関東申次となって富と権勢を誇った西園寺家に仕えることになる。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』,五味文彦『武士と文士の中世史』
(五味文彦)
バラバラな情報で恐縮だったが、ココに留めておきたい。
この楽家とのつながりが「琵琶」とつながり、熊野本宮の近くに「大智庵」を守っていくことにつながったのかもしれない。