二段目の八行目 九里氏の某
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永源寺のご本尊として【世継観音様】はいらっしゃるそうだが、25年ごとの御開帳なのだそうだ。
佐々木氏頼の息・満高が跡継ぎに恵まれなかったため毎日世継観音様に祈願していたそうで、その後満綱が生まれる。
満綱は足利義満の娘を妻とする。
満高ー満綱ー時綱ー政高(堯)(近江守護)ここで跡継ぎがいなくなり、養子を二人とることになる。
その養子の系なのだろうか、佐々成政に続いていくとの説がある。
もしくは、満綱の娘がいた可能性もあり、その後裔かもしれない。
九里氏は和歌山県の九里系図にもあったように佐々木氏頼の家人であった。
この家人が、家臣とどのように違うのかがいまいちわからないが、氏頼の許にいたことは確かである。
そのまま氏頼の系に代々関わっていたとすると…
九里氏が足利義澄を匿う事となった背景にも、関係してくるのではないだろうか?
佐々木(六角)満高の妻が足利義満の娘であったころから1471年の政堯が没するまでは将軍家とも近い関係であったと思う。
その後六角征伐の時代に入り、その関係は危ういものになってきていたようにも見える。
*****
永源寺の向かいに居を構えていたという九里氏こそ、九里家伝承の九里に近いと思う。
『九里家の伝承
「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野邑ニ建ツ。復タ小幡ノ巨家ヲ移シ館下ニ置ク、乃チ重元其一人。此レ自リ高野ヲ以テ居住ト為ス、慶長四巳亥九月廿四日卒ス、本源院天景宗祐居士ト号ス。・・・九里与三左衛門、故有リテ性ヲ改ム、九里者母方ノ性也・・・」と。(滋賀県中世城郭分布調査4) 』
「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野邑ニ建ツ。復タ小幡ノ巨家ヲ移シ館下ニ置ク、乃チ重元其一人。此レ自リ高野ヲ以テ居住ト為ス、慶長四巳亥九月廿四日卒ス、本源院天景宗祐居士ト号ス。・・・九里与三左衛門、故有リテ性ヲ改ム、九里者母方ノ性也・・・」と。(滋賀県中世城郭分布調査4) 』
織田信吉の母はお鍋の方である。
さらに、永源寺は明智光秀がいたという説のある『佐目』とも近く、九里氏や、この広田氏とも旧知の間柄であった可能性もあることになる。
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