長屋王家木簡は、長屋王と夫人であった吉備内親王の邸宅跡で木簡が発見されてから35年経つそうである。
長屋王とは天武天皇の孫にあたる。高市皇子の息である。
吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘で、文武・元正両天皇の姉妹。
出土地が長屋王の邸宅跡であることが確実であるとなったのは、雅楽寮から「長屋王家令所」に充てて舞人の派遣を依頼した文書木簡があったからだそうだ。
その木簡の中に【片岡司】という土地の名前?役目の名前?が出てくる。
第 65 回 歴史リレー講座「長屋王家木簡と片岡」 馬場 基氏(R2.2.16)
上記の中から気になる箇所を抜粋すると以下のようになる。
長屋王は、天武天皇の孫であるとともに天智天皇の孫でもある。
神亀 6 年(729)、長屋王は藤原氏の密告により聖武天皇から謀反の疑いを掛けられ自害する。
長屋王邸宅跡の発掘調査では 3 万点を超える木簡が出土。
長屋王の領地のなかでも重要なのが片岡司で近くの馬見丘陵には天皇家の土地があり、木簡には片岡司から納められた農作物の内容(カブラナ、桃、蓮
葉、ヌナハ=ジュンサイ、アザミなど)や関係者名(道守真人など)だけでなく、都まで運んだ人の名も見える。
全国に多数の荘園を抱える長屋王にとって、大和盆地の片岡は大和川を下って瀬戸内海航路へ、ひいては朝鮮半島へ直結する重要拠点という意義があったのではないか。
その多数の荘園の中に、上総国・下総国も含まれていたようである。
もしも、もしもそこに片岡司が派遣されることになり「片岡氏」を名乗っていた…なんという事はないだろうか?
片岡司…とは?
片岡王寺とは?
九里経久の年代を見直した際に、片岡経久(1175年生)はありえないということに一度はなったのだが、天武天皇の流れの中に接点がありそうで、もう一度調べてみた方が良いのかもしれない。