ここで、つながったのである。奇跡のように。。。
波多野氏と松田氏、そして和田氏。
備前松田氏の武家家伝によると、
「藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。源義朝の重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。義常は治承四年の石橋山合戦で平氏方に属し、のち自刃した。その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。」
「大永二年(1522)将軍義晴は松田元隆を京都に招いた。このころ、松田氏の勢いは強盛で、京では所司代をつとめ、かたわら妙覚寺の別当職についていた。そして、元隆は亨禄四年(1531)天王寺合戦で、浦上村宗とともに討死した。天王寺合戦とは、亨禄元年、細川高国が細川晴元と争い、将軍義晴とともに近江に逃れ、さらに浦上村宗を頼って三石に来たことから村宗は軍を率いて上洛し、摂津天王寺で細川晴元軍と合戦におよび、このとき、妙覚寺別当職であった松田元隆をはじめ多数の戦死者が出た戦である。」
この『妙覚寺』とは、『大徳寺領内妙覚寺』のことのようである。
「源頼政宅」の隣の「秀行卿宅」
秀行の祖母の父『源光基』。光基の弟『光重』は「波多野御曹司」
秀行の祖父は『藤原秀宗』(和田義盛の弟宗実(宗妙)の子で、藤原北家秀郷流の養子となった。」人物。
前々回の記事の藤原秀郷からの系図【藤原秀郷~千常~文脩~文行~公行】の次に公光となり、波多野・松田氏へとつながるのである。
源光基のwikipediaによると、「国房流美濃源氏の嫡流であった光信の長子であり土岐氏の先祖にあたる人物とされるが、理由は不明ながら土岐氏の嫡宗を甥にあたる光衡を養子に迎え「相続」させたといい、実子とされる頼基の子孫は伊賀氏を称している(『尊卑分脈』)。」
とあり、つまり上の系図の中の「伊賀氏祖」と重なるのである。
土岐氏ともつながりがあることとなる。(つまりは秀行の祖母の父=源光基という人物がキーマンか? 秀行の祖父秀宗も重要人物!)
つまり、頼政のお隣であった「秀行卿宅」は「九里氏とのかかわり」がある家であったのだと思う。(当たっているといいのだが…)
土岐氏・伊賀氏、新たなメンバーも調べてみたい。
土岐氏は、富来氏や富城氏・富木氏にも通じ、富城中太蓮忍ともつながってきそうな「苗字」である。
伊賀は浄椿が伊賀守を名乗っていた。義澄の小袖を義晴に渡したといわれている「あの人」である。
マジ面白くなってきますね。で養子関係だと若干ややこしいのですけど男性ではどうも籍や名字によって影響は出やすいです。女性は血筋みたいなんですけどね。
サッカーの松田さんも好きだったんでどうにか松田氏が才能を活かせるような時代に進化して欲しいと思ってもいます。6341