下総国小弓城は原氏の居城であった。
そして、尾張国二宮の原氏が持っていた「小弓庄」
原氏となる以前の椋橋氏ではあるが、椋橋季光の註に尾張国小弓庄本主也とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ba/2a65ebb92f7026b528585bb418c7bb29.jpg)
同じ「小弓」という言葉と、同じ「原氏」
これは、つながっていると思い調べてみたが、私の力では見いだせなかった。
しかし、もしもこの良峯姓の原氏が千葉氏流原氏となって、富木蓮忍や常忍となり、経久・常忍の代であちこちに散らばり、一つの系が臼井原氏となり、原胤信に至り(?)、苗字を隠さざるを得なくなって原胤栄の嫡男=「岡田忠兵衛元泰」と「岡田氏」に改めた‥等、可能性はゼロではないと思う。
特に、桓武天皇から始まる良峯氏系図のなかに小弓庄の本主【季光】がいて、その系の先に高成・高春とあり、さらに先には【僧 浄円】とあるのだ。
清原・斎藤の僧浄円とも思える年代であると思う。
この、浄円は、たまたま同じ名前だったのかもしれないが、この人物がもしも清原・斎藤氏の系図にある「浄円」とイコールだとすると、鎌倉時代の清原・斎藤氏の中に「良峯姓原氏」も紛れ込み、同化していた事になる。
原高春ー高直ー貞高・弟高重・僧浄円 となっている。
高春の孫の代である。1230年代あたりが活動期か?
藻原の領主斎藤兼綱公との関係も気になる処である。
きっとこの原高春と斎藤氏はつながりを持っていたであろう。原氏は元から藤原南家ともつながりがある様に見えること、斎藤氏も藻原の領主という事は藤原南家の黒麻呂の系と何等かつながりがある人物であったのではないだろうか?
斉藤氏となると、野本氏とも繋がっている。
高橋氏・後藤氏・加藤氏とも繋がってくる。
さらに系図を先に進めていくと、前野氏が登場する。
ちょっと壮大過ぎるところに足を踏み入れてしまい、困ったなぁ~という感じだが、
ただ、良峯姓から二度も養子に入っていただいている、しかも始まりが岡田であった「大和国宇陀松山藩・丹波国柏原藩」の九里としては、この原氏とつながり、岡田とつながってくれば、全てが繋がってくるような気もするので、なんとか糸口を見つけたい!
九里の周辺はどこを見ても、謎だらけ。
系図があればすっきりとわかるのではと思うのですが、どこかに系図ないでしょうか?
どんどん謎が拡大していって…手に負えなくなりそう…。