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畔蒜庄 その2.

2017-09-22 | 熊野氏

昨年、畔蒜庄のことを書いていたが、付属の情報として追記しておきたい。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%95%94%E8%92%9C

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02012a.htm

この畔蒜庄はwikipediaの「湛増」にも記載があった。

元暦2年(1185年)、源義経の「引汲」によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘(一説では300艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢2000人(一説では3000人ともいう)を率いて平氏と戦い、当初から源氏方として壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した(『覚一本平家物語』、『延慶本平家物語』など)。
これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた(『吾妻鏡』)。

歴博DBより3つご紹介
上総
【郡名】
畔蒜
【荘園名】
畔蒜庄
【フリガナ】
アビル
【参考市町村】
木更津市

【明治村字名】
(千本小坂等49村)・下郡・真利谷・真如寺・俵田・三田・戸崎・山本久留里・怒田・向郷・愛宕山・亀山・千本・小坂・蔵玉・草河原・釜生・香木原・横田・永吉
【史料村郷名】
南庄・亀山郷・沼田寺・北庄・真利谷郷・上郡葛原刀・永吉郷・横田郷・鹿田・大窪寺
【領家・本家】
熊野山領(領家職か)・円覚寺領(南庄内亀山郷・得宗領)・皇室領(禁裏御服料所=北庄)
【初見年和暦】
文治二年
【初見年西暦】
1186
【出典】
毛利家文書・円覚寺文書・覚園寺文書・周防佐々木文書・真如寺鐘銘・圓照寺梵鐘銘・足利長林寺蔵梵鐘銘・善雄寺蔵観音菩薩像銘・山神社棟札・海晏寺蔵雲板銘
【遺文番号】
カ6207・カ14908・カ14919・カ18898・カ29049
【記録類】
『東鑑』文治2,6,11・『山科家礼記』文明12,11,15・『実隆公記』永正5,2,17・同7,5,7
【関係文献】

【地名辞典】
 角川地名=小櫃川中上流、古代畔蒜郡のほぼ全域、南北に分かれ、庄号は戦国期にも=君津、木更津、袖ヶ浦3市の東部=文治2地頭職は熊野別当、地下は義兼と
【備考】
領家職は熊野社領か・寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊←母鶴熊=熊野関係者・弘安6関東下知状=南庄内亀山郷=北条時頼、将軍家祈祷料所として円覚寺に寄進=和田乱没収地か・応永18覚園寺所蔵戌神像胎内文書=畔蒜庄横田郷検田帳あり・応永1将軍義満御教書=当庄を佐々木高詮に返付=年貢の内毎月3千疋を禁裏御服料に進済・応永23足利市長林寺蔵梵鐘銘=畔蒜北庄大窪寺に寄進=彼庄者禁裏御祈所=大日本古文書7−1・永正5実隆公記=禁裏御服料所畔蒜北庄=摩利谷某押領・角川地名はアヒル、現地ではアビルという


【荘園名】
畔蒜南庄
【フリガナ】
アビルミナミ

【史料村郷名】
亀山郷・沼田寺
【領家・本家】
円覚寺領
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・円覚寺文書

【備考】
 領主職=山内首藤母堂鶴熊→清俊・→1703002畔蒜庄



畔蒜北庄
【フリガナ】
アビルキタ

【史料村郷名】
大窪寺・長吉郷・鹿田村・横田郷・真利谷郷・上郡葛原刀村
【領家・本家】
禁裏御服料所・皇室領
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・足利長林寺蔵梵鐘銘・覚園寺文書
【遺文番号】
カ6207
【記録類】
『実隆公記』永正5,2,17・同7,5,7
【関係文献】

【地名辞典】

【備考】
 領主職=山内首藤母堂鶴熊→清俊・応永1足利義満御教書=佐々木高詮に畔蒜庄返付=当庄年貢の内毎月3000疋を禁裏御服料に充てる=大日本古文書7−1・→1803002畔蒜庄

氏族
京極氏
父母
父:京極高秀、養父:六角氏頼
兄弟
高詮、吾全秀満、尼子高久
宍道秀益、宇賀野高雅、多田満秀

高光、高数

~~~*~~~

佐々木高詮の兄弟に「尼子」がいる。
武家家伝亀井氏からだが、「その亀井氏が尼子氏と姻戚関係を生じ、尼子の一門と認められるに至った経緯については明確な史料に乏しいが、いずれの頃かにおいて近江源氏と関係が生じたものと想像するしかない。」とある。

京極佐々木氏は遡ると佐々木秀義となり、妻は為義女であり、熊野別当の妻となった鳥居禅尼とは姉妹となる。ただし、為義は40人以上の子どもがいたというので、関係があったかどうかはわからないが、秀義の乳父母であった山内首藤が熊野領を相続しているということは、そしてそれが佐々木高詮に返付する過程には何等かあるのだと思う。

例えば、佐々木信綱の妻は?…など熊野別当系が入っている可能性はないのだろうか?


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