九里 【九里】を探して三千里

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ジローラモ・デ・アンジャリスの周辺から(4)

2021-02-15 | コラム

1619年 エリウド・ニコライ エゾールムの記述  「西印度及び東印度における新しき実話並に北方諸國頣地誌」(バイエルン國民図書館蔵)
(1)日本の北方に蝦夷即ちアイノモソティなる一大島がある。
(2)蝦夷の東方にはアイノモソティ諸島がある。
(3)蝦夷北方には東西に大陸が横たわり、この大陸で蝦夷の北方に当たる地方をレブンクル国と云う。
   この大陸は東方に広がり、北アメリカと陸続きで…西方ではそのまま伸びてアジア大陸と成る。すなわちレブンクルは東に延びてテンヅク、   キヴィラの諸国と接壌し、遂にフランシス・ドレークが1579年の第二次探検旅行で到達しえた北米太平洋岸の最北地点へと到達しうる。‥‥

エリウド・ニコライは、他の本によるとドイツ人である。
「北方渡来」には、元和五年(一六一九)、エリウド・ニコライがミュンヘンで出版した本に「日本の北方に、日本人は蝦夷と呼び、土人はアイノモショチと呼ぶ大きい島があるが、地図に書きもらされている」とあった。

===*===

上記の記述は1619年なので、デ・アンジェリスもすでに蝦夷に渡った後となる時期なので、シチリア島で見たという地図とは関係がない。
彼がシチリアにいたのは、「1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。」とあり、それ以前はパレルモにいたのではないかと思う。とすれば、1598年以前の地図を見た可能性もある。
とすれば、やはりモノクロのこの地図になるだろうと思う。ポルトガルの宇宙学者と言われているIgnacio Moreiraの地図であった可能性が大きいと思う。

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右上に微笑ましくも、まあるい蝦夷が書かれている。



よく見ると、実によくできている地図と思う。
オセアニア周辺も形は違えど、私から見るとあっぱれ!と思う。
これが大航海時代の産物なのだと。

===*===

デ・アンジェリスとカルヴァリオ(一緒に伝道していた人物)との足跡をまとめた箇所があった。

彼等の観察による、和人がまだ奥深く入る以前の蝦夷地、蝦夷の人々の様子、あるいは金の採掘(砂金ではなく小さな塊)その採掘のために人々が渡航するようになったこと、その金堀と称し切支丹信徒や宣教師も容易に蝦夷に入ることができるようになっていた事、其の現場の一つが千軒岳付近であった事。

また、松前殿の甥と同船したこともあると書かれている。

一緒にいたカルヴァリオも詳細な報告がある様であるが、内容はこの本に時折出てくる程度しか書かれていない。
此のカルヴァリオは1624年に仙台で殉教している。

===*===

一部の人(商人等の海外との交易をしていた人々)を除いて、日本国内の内乱で精一杯の状態であった時に、ヨーロッパでは世界に目が向かれ、地図もどんどん進化し、海外に人を派遣し宗教と文化をもたらし、各国・各地の状態を把握し報告書を着々と送っていた。

後に徳川幕府が禁教としたことも、あまりに広がり、力を持ち、危機を感じたからに他ならない。
それほど、人の心の中にまでもはいりこんでいたのだと思う。


下記のwikipedia「日本のキリシタン」 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7










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