今まで調べた事もなく、名前しか知らなかった『小牧・長久手の戦い』
織田信雄の秀吉と親しかった三家老を誅殺したことが「宣戦布告」となってしまった戦いで、
信雄・家康 VS 秀吉という形となる。
その誅殺された三家老の中に『岡田重孝』がいたことになる。
しかも、その息『岡田三四郎』がいたという説がある。
岡田三四郎正成 一見、柏原藩の岡田氏とは別系のようにも思えるが、それは「目くらまし」の為かもしれない。(?)
この岡田三四郎は、秀吉の家臣の子として突如登場し、黒田孝高がもらいうけ、無事に『黒田監物』と成長し、文書に現れるのである。
黒田監物正成
福岡藩黒田家家老 書状 とある。
http://kourindo.sakura.ne.jp/kenmotu.html
諱は「良利」であるそうなので、一見すると「利」が入っていて、源義光の裔武田流岡田氏のようである。
武田流の方は「利長・利治・・・・」と続き、信雄に仕えている時代もあり、信雄が朝熊に蟄居の際も親子(岡田利治・利次)がついていく。
利次は、信雄の後に前田利常についている。
この武田流系のように感じる正成=良利だが
『黒田如水出陣附富来安岐籠城』(慶長五年の出来事)の記事の中に、
『岡田三四郎は尾州星崎の城主岡田長門守が子にて、勇才弁舌に卓(こ)えれば‥‥』と記述されている。
この文書を信じれば、岡田長門守重孝の息となる。