水茎の岡山城(近江国)
なんといっても、九里一族滅亡…と言われた事件です。
『文亀二年(1502年)に「第一次伊庭の乱」勃発、これは、六角佐々木氏と伊庭氏との戦いです。
永正四年(1507年)管領細川政元が暗殺され、後継者争いが起こる。
その混乱に乗じて永正五年(1508年)以前政元に追放された前将軍足利義材が上洛し、将軍職に返り咲いた。
逆に政元に支えてもらっていた足利義澄は近江に日野氏とともに逃走する。
この義澄を保護したのが九里備前守(岡山城城主)であった。
『永正五年4月16日 義澄、足利義尹の東上して京畿に迫まると聞き、近江甲賀に奔り、九里氏に頼る、室日野氏亦、細川政賢の邸に匿る、』と大日本史料総合データベースに手稿が載っています。そう、九里を頼ってきたのです!
義材派である【六角高頼】VS 義澄を保護する【伊庭貞隆】・伊庭被官の【九里備前守】
永正八年(1511)3月5日 義澄の男子が岡山城で生まれる。播磨守護赤松に託す。(のちの義晴です。)
同年 八月十四日 岡山城で義澄が死没する。
翌月には岡山城主九里備前守が六角高頼に討たれる。
これでも争いは終わらず、さらに永正十一年(1514)二月、「第二次伊庭の乱」が始まったのである。
伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔すると、江北の浅井亮政の支援を受けた。』
以上 ここまでは webの「武家家伝」参照+自己流
しかし、九里は備前守(信隆)が殺された後も、信賢・浄椿・三重郎・宗忍と代は変わりながらも、闘い続けます。
乱は六年にも及び、ついに永正十七年(1520年)八月、岡山城が陥落して内乱は終結しました。
六角氏は、大きな船まで用意し湖側から攻めようと思っていたらしいです。
九里の戦いはまだ続きます。
なんといっても、九里一族滅亡…と言われた事件です。
『文亀二年(1502年)に「第一次伊庭の乱」勃発、これは、六角佐々木氏と伊庭氏との戦いです。
永正四年(1507年)管領細川政元が暗殺され、後継者争いが起こる。
その混乱に乗じて永正五年(1508年)以前政元に追放された前将軍足利義材が上洛し、将軍職に返り咲いた。
逆に政元に支えてもらっていた足利義澄は近江に日野氏とともに逃走する。
この義澄を保護したのが九里備前守(岡山城城主)であった。
『永正五年4月16日 義澄、足利義尹の東上して京畿に迫まると聞き、近江甲賀に奔り、九里氏に頼る、室日野氏亦、細川政賢の邸に匿る、』と大日本史料総合データベースに手稿が載っています。そう、九里を頼ってきたのです!
義材派である【六角高頼】VS 義澄を保護する【伊庭貞隆】・伊庭被官の【九里備前守】
永正八年(1511)3月5日 義澄の男子が岡山城で生まれる。播磨守護赤松に託す。(のちの義晴です。)
同年 八月十四日 岡山城で義澄が死没する。
翌月には岡山城主九里備前守が六角高頼に討たれる。
これでも争いは終わらず、さらに永正十一年(1514)二月、「第二次伊庭の乱」が始まったのである。
伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔すると、江北の浅井亮政の支援を受けた。』
以上 ここまでは webの「武家家伝」参照+自己流
しかし、九里は備前守(信隆)が殺された後も、信賢・浄椿・三重郎・宗忍と代は変わりながらも、闘い続けます。
乱は六年にも及び、ついに永正十七年(1520年)八月、岡山城が陥落して内乱は終結しました。
六角氏は、大きな船まで用意し湖側から攻めようと思っていたらしいです。
九里の戦いはまだ続きます。