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横山氏(4) 姓氏家系大辞典 26.に飛ぶ。

2016-11-22 | 横山氏
横山氏の姓氏家系大辞典、どうもぴんとこず、4~25は飛ばして、26番に進む。
26.佐々木氏族
近江の豪族高島氏の族にして、尊卑分脈に「佐々木信綱ー高島隠岐守高信ー出羽守頼綱ー河内守頼信(横山三郎 従五下、左衛門)阿波守頼有(同五郎)」と載せ、又佐々木系図に「頼信ー頼有(横山五郎左衛門尉)ー頼冬(左衛門尉)」と見え、又、「高信ー泰信ー泰氏ー師頼?順?〈漢字が潰れている)-下坂次郎左衛門重秀ー豊前守高重ー高兼(横山養子)」とあり、また中興系図に「横山・佐々木定綱末、高島高信の孫頼綱長男三郎頼信・之を称す」と。

高島郡横山村より起りしにて、織田信長のために亡さる。或は曰く此の横山氏は佐渡守高長也と、又興地誌略に
「武曾城(武曽村)は横山下野守が居城跡也。下野は佐々木の庶流、高島七頭の一員也。佐渡守高永といへるは、此の下野守がことにして、武曽横山を領す」と。

之より前、文安年中御番帳に「佐々木横山」を載せ、また平居系図等に見え、又浅井三代記、京極家臣に横山掃部頭家盛を挙ぐ。


27.近江 前項参照。
また、浅井郡(伊香郡)にも横山荘あり、興地誌略に「元暦元年、源頼朝・當庄を園城寺に寄付のこと、寺門記に見えたり。所在詳ならず。」と。また東鑑にみゆ。

又蒲生郡にも横山村在りて、横山喜内は蒲生家に仕ふ。これより前、横山太郎左衛門・応仁の初、御陣甲賀山の記に出づとぞ。
喜内は氏郷に従いて、奥州□川城(□は潰れていて見えず)壱萬三千石を領し、蒲生喜内と云へり。後蒲生備中真令と云ひて、石田三成に仕ふ。その男大膳・ともに関ケ原に死す。

又、伊香郡横山村に横山大明神あり、私考に「横山和泉の氏神、神主横山氏(和泉守と別系)」と載せ、また當国に「丸に剣かたばみ」を家紋とするあり。

~~~*~~~

以上が、近江関係の「横山氏」であった。

横山氏と小野氏との関係も大変興味深いものがあるが、あまりに手ごわそうなので、あきらめ、近江国内から起こった「横山氏」を書きだしてみた。が、心の中では、武蔵七党の横山党と関係があるのではないか…と思っている。

宇津木氏が武蔵七党と関係し、佐々木哲氏のブログ内に

「東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族であり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。
横山党は縁戚関係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元が補任されましたが、
宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。

・・・とあり、また、別のweb情報でも、

「宇津木氏_武蔵七党_横山党_小野氏
 横山家光の後裔である三郎某が南多摩の小宮村大字宇津幾を本拠とし宇津木を名乗ったことから始まる。この宇津木三郎は建久元(1190)年に源 頼朝の上洛に供奉した。後に、名字の地を離れ、上杉管領家を経て後北条氏に仕える。小田原城落城の後は彦根の井伊家に仕えた。」

・・・とあり、またほかの情報には、

「慶長六年(一六〇一)井伊家が近江国佐和山(後に彦根)へ転封に伴って宇津木氏も近江に移った。」とあった。

この宇津木氏も祖は小野篁となっているため、横山氏と同じである。



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