水茎岡山城つづきです。
六角氏が船を用意した~という話は、京の町を牛車を使い船を運んだという記述が残っているのです。
東京大学のデータベースでは、『兵庫から五段帆云々、大船也 牛車で引き…』とあります。
【大船】とあります。
☆★☆★☆
九里一族というだけあって、この時代はたくさんの九里がおりました。その親子・兄弟の関係が良くわかっておりませんが、一応水茎岡山城に関係あると思われる人を書き出してみます。
九里対馬守が岡山城主を始める ~ もともとは、近江八幡にある本郷城が居城ですが、六角より頼まれて伊庭氏が始めにこの地を守ることになったらしいです。
その伊庭氏の被官である九里が城主(城主代かもしれない?)となって、在城したようです。
(本郷城は応仁の乱の時に焼け落ちているそうです。その後はまた築城したのかどうかは?です。)
九里刑部少輔 ~ 信隆か
九里備前守 ~ 員秀
九里伊賀守 ~ 伊賀入道・宗忍と名前がいくつかあるらしい。
浄椿 ~ 近江国だけではなく、京のお寺にもいたことのある人 景徐周鱗の弟子である。
他に、伊庭氏・奈須氏・井狩氏・堀氏などの武士が参加
☆★☆★☆
九里信隆が策略によって六角親子に誅殺された後、その弔い合戦になり、信賢・浄椿(じょうちん)・三重郎らが闘い続ける…ということになったらしいです。最後は籠城戦。
九里備前守員秀という人については、面白い話があります。
飛鳥井家という代々の蹴鞠の先生に「蹴鞠五部抄」なるものを書いて頂いてます。『九里四朗次郎員秀』宛てになっております。(日本の古典籍その面白さその尊さ:反町茂雄著)
多少、公家への憧れがあったのでしょうか。
~~*~~*~~*~~
戦乱状態の岡山城に戻ります。
足利義澄が亡くなる際、想像ですが、水茎岡山城で生まれた『義晴(亀王丸)のことを、将軍になれるよう赤松氏と共に援護するよう』頼まれていたと思います。
いつしか九里一族の間では「亀王丸様を将軍に」ということが合言葉になっていたようです。
伊賀入道宗忍とその息が落城後も残党として生き残っておりました。
そして、とうとう大永四年(六月八日)『義晴、近江九里宗忍の、足利義澄の小袖を進むるを謝す、尋で、廷臣等、之を賀す』とあり、
足利義澄より預かっていた「小袖」を息子の将軍足利義晴に渡すことができたのです。
(大永元年十一月に征夷大将軍になる。この大永四年六月八日は近衛尚通娘と結婚した日)
義澄が1502年に水茎岡山城に逃れてきてから1524年義晴が無事に将軍となり小袖を渡す迄、
九里は長い戦乱に巻き込まれ、滅亡と言われるほどに死んでいったのです。
【玉松】という子どもが、六角氏の人質として渡されておりました。永正十七年冬に和議を結ぶのですが、その際に渡されたようです。
『師走、六角と九里に和議が成り、九里玉松(信隆の子)は人質として六角家に差出された』とあります。
この玉松は、私としては、鹿苑日録の中に良く出てくる「九里源兵衛」ではないか?と思っております。
六角氏の使者のようでもあるからです。
その後、大永五年(1525年)十二月二十日に城に立て籠もっていた残党九里三重郎らが、六角佐々木軍と近江八幡今金田村の(本郷城にほど近い)黒橋で戦い、敗れました。
宗忍はその前後に自害したとも言われております。ということは、玉松以外は皆死んでいったということになります。合掌
しかし、加賀・長岡等、九里の名前は今日まで受け継がれております。
そして、員秀の娘が内裏に入っていたので、その子孫もいるかもしれません。
六角氏が船を用意した~という話は、京の町を牛車を使い船を運んだという記述が残っているのです。
東京大学のデータベースでは、『兵庫から五段帆云々、大船也 牛車で引き…』とあります。
【大船】とあります。
☆★☆★☆
九里一族というだけあって、この時代はたくさんの九里がおりました。その親子・兄弟の関係が良くわかっておりませんが、一応水茎岡山城に関係あると思われる人を書き出してみます。
九里対馬守が岡山城主を始める ~ もともとは、近江八幡にある本郷城が居城ですが、六角より頼まれて伊庭氏が始めにこの地を守ることになったらしいです。
その伊庭氏の被官である九里が城主(城主代かもしれない?)となって、在城したようです。
(本郷城は応仁の乱の時に焼け落ちているそうです。その後はまた築城したのかどうかは?です。)
九里刑部少輔 ~ 信隆か
九里備前守 ~ 員秀
九里伊賀守 ~ 伊賀入道・宗忍と名前がいくつかあるらしい。
浄椿 ~ 近江国だけではなく、京のお寺にもいたことのある人 景徐周鱗の弟子である。
他に、伊庭氏・奈須氏・井狩氏・堀氏などの武士が参加
☆★☆★☆
九里信隆が策略によって六角親子に誅殺された後、その弔い合戦になり、信賢・浄椿(じょうちん)・三重郎らが闘い続ける…ということになったらしいです。最後は籠城戦。
九里備前守員秀という人については、面白い話があります。
飛鳥井家という代々の蹴鞠の先生に「蹴鞠五部抄」なるものを書いて頂いてます。『九里四朗次郎員秀』宛てになっております。(日本の古典籍その面白さその尊さ:反町茂雄著)
多少、公家への憧れがあったのでしょうか。
~~*~~*~~*~~
戦乱状態の岡山城に戻ります。
足利義澄が亡くなる際、想像ですが、水茎岡山城で生まれた『義晴(亀王丸)のことを、将軍になれるよう赤松氏と共に援護するよう』頼まれていたと思います。
いつしか九里一族の間では「亀王丸様を将軍に」ということが合言葉になっていたようです。
伊賀入道宗忍とその息が落城後も残党として生き残っておりました。
そして、とうとう大永四年(六月八日)『義晴、近江九里宗忍の、足利義澄の小袖を進むるを謝す、尋で、廷臣等、之を賀す』とあり、
足利義澄より預かっていた「小袖」を息子の将軍足利義晴に渡すことができたのです。
(大永元年十一月に征夷大将軍になる。この大永四年六月八日は近衛尚通娘と結婚した日)
義澄が1502年に水茎岡山城に逃れてきてから1524年義晴が無事に将軍となり小袖を渡す迄、
九里は長い戦乱に巻き込まれ、滅亡と言われるほどに死んでいったのです。
【玉松】という子どもが、六角氏の人質として渡されておりました。永正十七年冬に和議を結ぶのですが、その際に渡されたようです。
『師走、六角と九里に和議が成り、九里玉松(信隆の子)は人質として六角家に差出された』とあります。
この玉松は、私としては、鹿苑日録の中に良く出てくる「九里源兵衛」ではないか?と思っております。
六角氏の使者のようでもあるからです。
その後、大永五年(1525年)十二月二十日に城に立て籠もっていた残党九里三重郎らが、六角佐々木軍と近江八幡今金田村の(本郷城にほど近い)黒橋で戦い、敗れました。
宗忍はその前後に自害したとも言われております。ということは、玉松以外は皆死んでいったということになります。合掌
しかし、加賀・長岡等、九里の名前は今日まで受け継がれております。
そして、員秀の娘が内裏に入っていたので、その子孫もいるかもしれません。