先般の「九里種信の古文書」に「起太蔵人」か「乾太蔵人」か「紀太蔵人」と読めそうな部分があった。
起ならば「隠岐」であろうと思われる。
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佐々木義清の嫡男であった政義は「隠岐太郎」であった。
佐々木政義1208年ー1290年没 建長2年(1250年)出家
wikipediaによると
五代将軍藤原頼嗣の近習であったそうだ。
父の歿後、隠岐・出雲両国の守護職を相続したが、三浦泰村と諍いを起こし憤怒に任せて、建長2年(1250年)無断で出家をして心願と号した。この無断出家の罪により政義の職掌・所領は没収され、弟の佐々木泰清が、隠岐・出雲両国の守護を継承した。
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因みにだが、五代将軍藤原頼嗣周辺
中原親能の娘が五代将軍藤原頼嗣の母大宮殿
頼嗣の妻は北条時氏の娘檜皮姫。
頼嗣も檜皮姫も18歳で他界している。
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その他にも隠岐太郎と名乗っていたのが「土岐氏」である。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/toki1.htm
光定(土岐五郎)-光包(隠岐太郎)-頼貞(隠岐孫次郎)
1207生~81没 1235生~72没 1264生~1339没
養老町史 http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/22yoro_history1_1.pdf
コマ115-116に
「土岐家譜 土岐守護家初代伯耆守頼貞は甥の土岐太郎三郎光賢へ多芸庄内の支郷吉田の地頭職をゆずっている。暦応二年(一三三九)足利直義は知行を承認している。吉田は大垣藩座右秘鑑に「吉田を貞享元子年(一六八四)豊村と改む」とある処から豊の地域である(史料編古代中世一)。
土岐頼貞は孫の土岐彦九郎頼重に美濃国妻木郷・多芸庄内多芸嶋・榛木の地頭職をゆずり、同じく直義の承認をうけている。このうち榛木は飯ノ木のことで多芸嶋と共に多芸庄内の内にある(史料編古代中世二)。
土岐太郎三郎光賢は頼貞を伯父と書いているので頼貞の兄の子の筈である。尊卑分脈には頼貞に三人の兄があった。長兄を国時といい、隠岐太郎を名乗ったが早世した。この国時に三人の子があり、長子は孫(弥)太郎国経、次子は弥太郎国貞、三子は太郎三郎光方となっている。光方は光賢と同人である。」
光包みつかた 1235生~72没 = 光方・光賢 となるようである。
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乾太郎であったなら、乾太郎兵衛
wikipediaの「乾氏」に「乾氏は本姓は宇多源氏で、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。永正8年(1511年)に足利義澄が死去するとこれに仕えていた乾太郎兵衛は京都を去り、摂津国島下郡に住した。 」とある。この人物と思われる。
紀太郎であったなら、奥津島の紀氏。武内宿禰以来のつながりかもしれない。
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皆どこかで接点がある。
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梶□屋敷がもしも加地屋敷であったなら、誰がその屋敷を相伝する可能性があるだろうか?
一応 梶東とは読んでみたものの、梶治と書いてあるのかもしれない。
二年前に書いた記事が関係してくるのだろうか?
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/c/7ae877d9033e82067d524e137d12155e
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/光定
甲賀に隠岐氏がいたそうである!
佐々木随兵元神保平氏 隠岐左近大輔
隠岐平左衛門
memo 隠岐統朝(おき むねとも)・隠岐続朝(おき つぐとも)
何かしら古文書を解読してわかると嬉しいのだが。
頑張ろう!