このブログを通して知り合った「九里様」のお父様が、九里氏の先祖を探されていらした。
昭和時代のことである。
その残された手紙の中に『九里氏の系図には「橘逸勢」の名があった。』と系図を見た方の言葉が残っている。
確かに、九里氏にも橘氏との接点はある。
九里の祖である経久(蓮忍入道)の父は「橘次」を名乗り、橘氏に改めている。
さらに、九里龍作(=五代龍作)氏は自分の家の系図を作る際に「大江氏」の系図を使用している。
この二つを合わせると、中原氏であり大江氏。大江氏であり橘氏。中原氏であり橘氏。
中原氏は清原氏でもあり、清原氏は大中臣氏でもある。
大江氏と橘氏は婚姻関係もあり、養子縁組もある。
さらに中原氏と系図が重なっている部分もある。
では、今回は大江氏と橘氏の接点を、復習もかねて書き出していこうと思う。
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私が知っている接点は大江成衡である。妻が橘孝親の娘。
その息大江匡房。橘以綱の息広房を養子としている。
広房ー以長ー以政ー以経と続く。
以政は九条兼実の家司として仕えている。
また、興福寺の次官ともなっている。
系図を見ても九里の苗字も経任の名も出てこないが、どうもこの辺りか?と思う。
以政は「仁安元年(1166年)『橘逸勢伝』を撰している。橘氏長者は長子・以経が継承した。」とある。
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しかし、其の外にも系図に出てこない橘氏のweb情報もあったので、関係がありそうな部分をここに留めておきたい。
https://seiseiruten.jimdo.com/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%B3%BB%E5%9B%B3/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AE%E6%A9%98%E5%A7%93%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/
橘忠兼
生没年未詳。平安時代末期の人。従七位下、内膳司の典膳を務めた。天養~治承(1144~1181年)の間、補訂を重ねて「色葉字類抄」をまとめた。
橘高俊
生没年未詳。奥州藤原氏の家人。藤原泰衡の家臣。文治5年(1189年)9月、藤原氏滅亡後の戦後処理として、源頼朝から橘高俊兄弟に焼失した奥羽2国の絵図や土地台帳の作製を命じられる。
橘兼高
生没年未詳。平安時代末期の備後国大田庄の在地領主。庄内の村々に居を構える公文ら下級庄官を被官化し武士団を形成。源平の内乱の過程で大田庄全域にまで領主経営を拡大。建久元年(1190年)高野山金剛峰寺根本大塔供僧の訴えで領主制を大きく後退させる。同7年謀反の咎により失脚した
日興上人(橘光長)(1246~1333)
寛元4年(1246年)甲斐国鰍沢大井庄領主橘光重の男として生まれる。駿河岩本の実相寺で出家し、文永年間(1264~1274)、富士郡に来た日蓮上人に師事して、以後は佐渡流罪の時にも日蓮に従い、日蓮が身延に入ってからは出生地の鰍沢をはじめ甲斐、駿河などで布教活動に専念した。日蓮没後、正応3年(1290年)南条時光に大石ヶ原の寄進を受け、10月12日大石寺を建立。正慶2年(1333年)「日興遺誡置文」を表し、その後没す。先祖の菩提寺として、恵命山蓮華寺を弟子の日華上人に建立を命じる。
橘季兼
生没年未詳。大和国出身。吉野郡金峰山寺の寛元2年(1244年)古鐘銘に名前が見える。
日頂上人(1252~1317)
建長4年(1252年)千葉で生まれる。父は伊予守橘定時。文永4年(1267年)に日蓮上人に帰依。母は富木尼御前と呼ばれた妙常。後に常林寺を創建。
橘成忠(鳥羽成忠)
生没年未詳。戦国時代の国人。伊勢国鳥羽の領主。橘宗忠の父。英虞郡鳥羽城主。官途は監物。1568年、北畠具教から離反を起こした。北畠具教勢の野呂将監を打破った。南伊勢国を織田信長が領すると、織田信長勢の九鬼嘉隆に属した。
橘宗忠(鳥羽宗忠)
生没年未詳。戦国時代の国人。伊勢国鳥羽の領主。官途は主水。鳥羽の地はもともと伊勢神宮の神領であったが、平安時代の末期に橘氏がこの地を領し、居館を築いて鳥羽殿と呼ばれていた。戦国時代に入って、永禄11年(1568年)伊勢波切城主であった海賊の九鬼嘉隆は織田信長を後ろ盾にして橘宗忠を攻略、宗忠の娘を妻として鳥羽城を奪い取り、志摩一円を支配した。
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上記の人物を一人一人見て行くと何かヒントがありそうである。
橘忠兼:色葉字類抄. 上,中,下 / [橘忠兼] [著] 早稲田大学所蔵
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00596/index.html
橘高俊
橘兼高:
生年:生没年不詳
平安末・鎌倉時代前期の備後国(広島県)大田庄の在地領主。庄内の村々に居を構える公文などの下級庄官を被官化して武士団を形成し,源平の内乱の過程で,ほぼ大田庄の全域にまで領主経営を拡大し,「兼高・光家私領の如し」といわれた。建久1(1190)年,高野山金剛峯寺根本大塔供僧の訴えにより,領主制も大きく後退させられる。しかし公文層を介して庄全体におよぶ勧農機能を持っているため,その領主制を否定できず,建久3年には,逆に段別2升の所当米を免除されている。建久7年謀反の咎により失脚した。兼高が差し出した得分注文(所領・収益について書き上げたもの)は在地領主制の内容を示す史料である。<参考文献>瀬野精一郎編『備後国大田荘史料1』,河音能平『中世封建制成立史論』
(吉良国光)
日興上人(橘光長)この人のことは富木常忍がよく知っていたと思う。父は『大井橘六』橘三郎1きっさぶろう たちばなさぶろう
日蓮大聖人御在世当時の信者で、大井橘三郎光房のこと。遠江国(静岡県)の人。
橘三郎は、大井橘六の三男であり、日興上人の弟。
橘季兼
日頂上人:俗姓は南条氏。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。
日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。
橘成忠(鳥羽成忠)
橘宗忠(鳥羽宗忠)
橘光重 左近将監 :和歌山の九里家の系図の中にも小堀氏左近将監とある。
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一方、富木常忍にいらした後妻さんは「山崎氏」であった、「南条氏」であった、など情報があり、よくわからなかった。
また、九里経任の改めた橘氏も、誰の橘姓を受け継ぐことになったのか…そこが不明のままである。