東京大学史料編纂所の詳細な解説を基に、他のweb情報をプラスしてみた。
【後法興院記】後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。
【後法成寺関白記】近衛尚通(一四七二〜一五四四)の日記
近衛尚通は、永正五年(1508年)四月十六日の条に細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを中国の春秋戦国時代に例えて「戦国の世の時の如し」と書いているそうである。
尚通は、近衛政家を父とし、越前朝倉氏の被官加治氏の女を母として摂関家に生まれた。
尚通は延徳二年右大臣となり、明応二年二十一歳で関白・氏長者となって、同六年に辞し、永正十年再び関白・氏長者となり、翌十一年・十二年には太政大臣をつとめている。永正十六年には准三宮の宣下を受け、天文二年に落髪する。
日記は、父政家が永正二年(一五〇五)に亡くなったあとを受けて、同三年正月元旦より起筆し天文五年(一五三六)十二月に及んでいる。この間、永正十一年・十二年、大永二年・四年・五年・七年、天文三年・四年の計八年分は現存していない。本文が伝わっている部分はすべて自筆原本が現存し、その二十一冊は財団法人陽明文庫に架蔵されており、これを本書の底本とした。自筆原本の表紙すべてに記主自ら「永正三年記」等と年次のみを記しているが、本書には一般に通用しているところに従って『後法成寺関白記』の題名を用いた。後法成寺は、尚通の諡号である。本冊には永正三年正月より同九年十二月までを収めた。
…本冊には、足利義尹・義澄や細川澄元・同高國・同澄賢の抗争が詳しく記録され、細川政元被官赤沢朝経の入国に伴う大和の動静、香西元長による上賀茂社家への放火、といった混乱に対応して、尚通邸からも婦女子や重書類を避難させるなど、当時の世相が具体的に見られる。
三条西実隆との詩懐紙の贈答を始めとする公家との交流はもとより、宗祇から古今伝授を受けた尚通邸には連歌師もさかんに来訪して文学的な関心の高さがうかがわれ、これをきっかけに接触をもとめる地方大名の記事も収められる。
家中では後に慈照寺住持となる明岳瑞昭、一乗院門跡となる覚誉、聖護院門跡となる道増といった子息や、継孝院、智園寺に入室した息女をはじめ、弟一乗院良誉や妹大祥院尊永・御霊殿、叔父景陽軒、叔母大祥院春渓との密接な連絡があり、父政家の後室(大上様)との縁からその父飛鳥井雅親や同雅俊と頻繁な交際、自身の室維子との縁からその父徳大寺実淳一家との交流が見られる。
家領支配の様相、近衛家書札礼など興味深い記事に富む。
担当者 田中博美
本冊には、大永三年(一五二三)から享禄四年(一五三一)に至る九ヶ年のうち、原本が残存する六ヶ年分(大永三年・六年・享禄元年・二年・三年・四年)の本文ならびに紙背文書を収めた。記主近衛尚通の五二歳より六〇歳に至る記録である。前冊と同様、陽明文庫所蔵の原本を底本とした。
今回収録した期間には、政局に大きな変化があり、武家を中心として登場人物に大幅な変動が見られる。記事を欠く年次であるが、永正十八年(一五二一)三月、将軍足利義稙は細川高国と対立して京都を去り、同年十二月には高国によって足利義晴が擁立されている。また大永六年冬、高国政権内部の対立から政情が流動化すると、翌七年春には将軍義晴・高国勢が京都を退き、代わって細川晴元勢が入洛するなど、情勢は目まぐるしく変動し続けた。こうした混乱は、享禄四年六月に高国が敗死するまで続いており、まさに本冊の収録範囲に対応している。高国と懇意であった尚通にとって、同勢力の衰退・滅亡は大きな衝撃であり、その動静が詳く書き留められている。なお朝廷においても、大永六年四月に後柏原天皇が崩じ後奈良天皇が践祚しており、情勢に変化が見られた。
中央の混乱が深まるのと平行して、尚通は遠隔の戦国大名と交流を重ねている。周防の大内氏・越後の長尾氏・能登の畠山氏とはもとより密接な関係を有していたが、加えて薩摩の島津勝久・北関東の上杉朝興・相模の北条氏綱などとの往来が頻繁に確認されるようになる。紙背にもこうした大名に充てた書状案が多数残されている。とりわけ口絵図版として掲出した享禄三年十一月二八日付の島津勝久充書状案(享禄四年冊第十一丁紙背)は、その正文が本所所蔵島津家文書に残されており(『大日本古文書島津家文書』二ノ六五五号)、注目に値する。また都鄙間を往来する山伏・連歌師・商人などもしばしば記事に見え、尚通を取り巻く人脈の一端を窺い知ることができる。
次に大永・享禄年間における尚通の近親者の動向についてふれておきたい。嫡子稙家は大永三年三月に二一歳で右大臣に任じられ、さらに大永五年四月には関白となり、以降本冊収録の期間、その地位を保っている。尚通は若い稙家の後見として、様々な助言を与えていたことが垣間見える。大覚寺に入っていた息の禅意(後の義俊)は、大永八年三月に「新門主」と記されるようになるが、門跡譲与をめぐって前門主性守との間になんらかの軋轢があったと見られ、正式な譲与状を得るには翌享禄二年八月を待たねばならなかった。なお享禄三年十一月、隠居所に移った性守は盗人に殺害されてしまう。
最後に、尚通息の一人が享禄四年十一月に久我通言の養子となり、同家に移ったことに触れておきたい。これは通言の嫡子邦通が同年六月に死去したこと受けたものである。この息は永正末年の生まれで、後に久我晴通を名乗ることになる。通言室は尚通室維子と同じく徳大寺実淳の娘であり、尚通息は通言夫婦からみて甥にあたる。こうした関係から通言は養子に請うたのだろう。
担当者井上聡
「連成院記録」に、延徳四年四月条 「九里入道為大将千人ヤナ瀬庄若槻乃城寄之数々合戦」と記す
「後法興院記」に、若槻城 延徳4年3月26日の条「一両日以前江州敵蜂起、安富、若槻両城同時責之、及難儀云々」
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d942e7df3cd510482e6eeb5bc00034c4
【後法興院記】にも九里氏は登場する。

【後法成寺関白記】にも、登場している。
享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。
また、【鹿苑日録】にも同じ九里源兵衛がしばしば登場し、天文法華の乱の調停役になったり、対馬守を名乗ることとなったり、旅行の際に牛黄を買ってきたり。
【業賢記】は大外記清原業賢の日記。ここに管領細川高国と近江九里・高野瀬・蒲生らと連絡を取り合っていたことが記載されているそうである。
これら、生の声は実際に生きていた香も感じることができる。
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父の関係とももっと先で関わりそうで今ちらほらきてます。で昨日調べていてびっくりしたのがかげとらさんって有名人でした。うちの家族からやたら人気ある武将。で毘でしたっけ?旗。
長尾さんが尊敬出来る振る舞いが出来る奈良時代から近江と接点ある一族探してますけど九里さんじゃないかな?そう近江の勝部っていますよね?九里さんとも〜部の時代から接点あるように感じてます。