象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

ギロチン先生から見た、死刑制度の矛盾〜キロチンは誰が為にある?

2021年02月10日 05時59分15秒 | 独り言&愚痴

 ゴキブリは6本の脚で歩く。
 ヒトは2本の脚で歩く。
 ただそれだけの違いだ。

 ゴキブリは悪事をしでかさないが、人間は常に悪事をしでかす。その規模は、”共食い”の次元を大きく超える。
 ヒトは他の動物に比べ、恐ろしく獰猛で不完全な生き物である。故に、この欠陥に塗れた複雑な遺伝子を持つ生き物は、時には殺処分する必要があるのだろうか?
 だからといって死刑が100%正しい筈もない。
 しかし悲しいかな、死刑に変わる有効な手段がないのも事実。但し私は、死刑制度には一応は賛成である。

 死刑制度に関しては、2度ほど記事を書いたが、どうも上手く書けないし、気持ちのいいもんではない。
 結局、死刑制度が存在しようがなかろうが、悪はなくならない。いやこれからも増え続けるだろう。つまり、悪は我ら善良な民よりもずっとずっと賢いのだ。

 そこで今日は、ギロチンが見た現代の死刑制度の矛盾について書きたいと思います。


ギロチンの誕生

 そういう私は、絶対悪を処分する死刑制度には賛成だが、今の死刑制度には明らかな矛盾や不公平がある事も事実です。
 なぜ?ルメイやオッペンハイマーやチャーチルにトルーマン、それに岸信介に”陸の三馬鹿”などの戦時とは言え、多数の民間人を巻き込んだ大量殺戮者が死刑にならないのか?
 むしろ彼等の一部は、勲章やノーベル賞までもらうというパラドクス。
 私はそっちの方がずっと腹が立つ。そう考えると、死刑という脅しも必要なのだろうか?

 勿論、どんな理由があろうと殺人は許されない。であれば戦争も同じだ。
 戦争だからとて大量殺戮が許され、弱い立場の大衆は僅か1人の殺人でも、理由如何では死刑を食らう事もある。

 今日のテーマであるギロチンを提案したのはフランスのジョセフ・ギヨタン(1738-1914)でした。 
 博愛主義者で議員でもあり内科医でもあるギヨタン博士は1789年に、受刑者に無駄な苦痛を与えず、身分に関係なく”名誉ある死”を適用できる様に、機械装置のギロチンにより人道的?な処刑を行うよう議会に提案した。
 因みに、それ以前にもギロチンの様な”断頭装置”は13世紀には既に存在し、彼がギロチンの発明者ではない事は明らかになってます。事実、ギヨタンの家族も断頭装置に彼の名を付けないでほしいと懇願した。

 当時は、貴族は苦痛の少ない”斬首刑”で平民は”絞首刑”、また平民の重犯罪者には”八つ裂きの刑”や”車裂き”などの残酷な刑罰が課されてた。
 当時の議会では、死刑を身分に関係なく単一化し、残酷な死刑を廃止する方向で進んでいた。そこでギヨタンは、死刑の方法を”最も上位の斬首刑に統一する”よう、熱心に議会に提案したんです。
 将軍であろうが名誉議員であろうが貧民であろうが、悪い事をした奴は全て”名誉の刑”ギロチンに伏すという論理ですね。

 しかし、ここで問題が起きた。死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンが斬首刑の従来のギロチンでは上手く切れないし、逆に苦痛が大きく残酷になると問題視した。
 そこでギヨタンは、単純な機械式”斬首システム”を確立する必要性を議会に訴えた。
 実際にギロチンの設計をしたのは、外科医のアントワーヌ・ルイであった事は殆ど知られてはいない。以降、開発に関する実務はルイとサンソンの2人により進められ、ギヨタンはギロチンの設計には全く関わっていない。 
 1792年に議会で成立したギロチンだが、導入に関する法整備はギヨタンが仕切った為、ギヨタンの名前ばかりが広まる事になる。

 因みに、ギロチンの正式な名称は”ボワ・ド・ジュスティス(正義の柱)”たが、当初は設計者のアントワーヌ・ルイの名前をとり、”ルイゾン”の愛称で呼ばれた。しかし、ギロチンの人道性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である”ギヨティーヌ”(ギロチン)という呼び名が定着した。


ギロチンのパラドクス

 しかし、当のギヨタンは死刑に反対であった。彼は”より人道的でより痛くない死刑こそが、死刑の完全な廃止に向けての最初のステップになる”事を期待した。
 ギヨタンは公開処刑ではなく、少数の家族が処刑に立ち会う事を望み、処刑をより個人的な小規模なものする事を誓った。
 ”首切り(ギロチン)による死刑が当時の残酷で不正なシステムを防ぐ筈だ”と確信し、そして”機械的な首切りによる公平な処刑システムが確立された後、大衆はギロチン制度に感謝するだろう”とも予測していた。

 国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットも他の平民受刑者と同様に、ギロチンにより処刑された。また革命の大立者ジョルジュ・ダントン、恐怖政治を主導したマクシミリアン・ロベスピエールや、受刑者をギロチン台に送り続けた検事フーキエ・タンヴィルも最期はギロチンで斬首された。
 この様にフランスの恐怖政治で全ての党派を次々と呑み込み処刑した状況は、当時の人々によって”ギロチンの嘔吐”と呼ばれた。
 結果、ギロチンが登場するまでフランスには160人の死刑執行人と3400人の助手が存在してた。しかし、ギロチン導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には1人の執行人と5人の助手だけで、フランス全土の処刑を一手に担える様になる。
 フランスでは総裁政府期から平時の死刑制度を廃止していたが、復古王政で再開された。

 古くから、”処刑は公開して民衆への警告とすべき”とする刑法思想があり、公開処刑がひろく行われた。
 悲しいかな、ギヨタンの予想とは裏腹に、第2次世界大戦直前の1939年まで、フランスでもギロチンによる公開処刑が行なわれた。
 しかし人権意識の高まりから、公開処刑は減少し、同年の6月の死刑執行が最後となる。

 ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯や絞首刑との比較から、欧州でも人道的な死刑装置と位置づけられ、使用されなくなったのは意外にも比較的近年の事だ。
 ギロチンの本場フランスでは、死刑制度が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われたチュニジア人労働者である。

 因みに隣国ドイツでは、ドイツ帝国時代の1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ナチス・ドイツを経て西ドイツで死刑制度が廃止される1949年まで使用され続けた。
 特にナチス時代の1933年~1945年にかけ、16500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルらの政治犯も多人数含まれてる。
 特に、ナチス政権下のライヒハートという執行人によって2948件のギロチン処刑が執行されたが、これは1870年~1977年までのフランスでの処刑件数よりも多い。その上皮肉にも、この3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯として、ライヒハートによって処刑された。


ギロチンと現代の死刑制度

 私はあるコメントで、”ギロチンの時代の死刑には公平さがあったが、今の(2つの世界大戦後の)死刑制度には、明らかに矛盾と不公平がありすぎだ”と書いた。
 確かに、ギロチンは平等な死刑執行だが、その数は半端じゃない。それだけ悪人も数多くいるのだが、ギロチンの犠牲になった革命家や英雄も多くいる。
 ”ギロチンのパラドクス”じゃないが、歴史を振り返ると、現代の死刑制度よりかはずっと恐ろしく合理的な制度ではある。しかし、少なくともギヨタンが言うような、”博愛的な”処刑システムとは程遠い事は明らかだろうか。
 結局、4mの高さから落ちる40kgの重さを持つギロチンの刃は、”正義の柱”という名の元で、悪人や善人を含め、大量の人間を一瞬にして殺戮したのだ。

 今では、一部の金持ちや政治家はどんな悪事をしでかしても、ギロチンの刑や死刑にはならず、名誉市民としてノホホンとなる。
 逆に、追い込まれた我ら弱い立場の貧民は濡れ衣を被せられ、死刑になる事もある。
 勿論過去にも、汚名を着せられ、ギロチンの犠牲になった不特定多数の無実の民もいただろう。その代わり、どんな英雄でも権力者でも悪事をしでかせば、ギロチンであっという間に処刑された。
 今の日本の政治家や議員の半分は昔だったら、ギロチンの犠牲になってただろうか?

 ただ死刑制度には反対だが、超極悪人を裁くにはギロチンの復活が必要だと思う人もいるだろうか。
 故に、下級市民も含め、弱い立場の一般人は死刑制度を廃止し、政治家や権力者などの強い立場の上級市民の大量殺人には”ギロチンの刃”をというのが理想かもしれない。
 勿論、遺族にとっては上級も下級もない筈だから、難しい部分はあるが。
 しかし、死刑制度ををなくしたとても、悪人は蔓延り、それに応じて復讐も蔓延し、第2の第3のマリアンネが登場するだろうか。
 

ギロチンで悪は裁けるのか?

 ”京アニ犯人”の事件の時もそうだったが、何でも平和に群がる日本人の感傷的なコメントには、少し虚しくなる。
 ”法治国家”とか”加害者の異常心理”とかを深刻な表情で語れば、アホな大衆受けする。裁判も世論受けする裁定を下したがる。

 何故、人類社会に法(システム)が必要なのか?それを語れる人がどれだけいる?
 法律が存在しなかった石器時代の方が、凶悪な犯罪も極端な格差もなかったであろうとは皮肉な事だ。
 因みに、”法”とは1万年前の”定住革命”で生まれた、定住を支える余剰収穫物の所有を保護する為だった。
 つまり、余分に増殖したアホ(大衆)を支える為の虚構のシステム。
 しかし農耕革命により、地球上に繁殖・余剰したアホ(ホモ•サピエンス)の群れが虚構(法)を忠実に守ってたら、偶然にも安定した社会になった。そこでフェイク(虚構)や一部の権力者が幅を利かし、今の腐敗した政界と超格差社会が出来上った。

 一方で処刑(死刑制度)だって同じ事だ。
中世ヨーロッパでは様々な凶悪犯罪が発生した。それらを取り締まる為に極刑(ギロチン)が生まれた。
 以降、ギロチンの恐怖は凶悪犯罪だけでなく腐敗した政治を防ぐ効果もあった(恐怖政治)。
 当然ながら、このギロチンも非人道的すぎるとして1981年に完全廃止に至る。
 今では、その死刑制度も非人道すぎるとの大衆受け&平和受けする論理で廃止になりつつある。

 しかし悲しいかな、ギロチンを持ってしても悪はしぶとく蔓延り、死刑制度を持ってしても悪はなくならない。
 結局、絶対権力を”正義の剣”で切り落とさない限り、悪は権力に群がり、国家や法律をも支配する。

 嗚呼、ギロチンは誰が為にある?



2 コメント

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Unknown (kaminaribiko2、)
2021-02-10 15:25:03
私は矛盾ある死刑はするべきでないという考えですが、しかし、それでは被害者、及び被害者の家族の心は収まりませんね。が、冤罪だったときのことを考えて、やはり廃止にしてほしいです。
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ビコさんへ (象が転んだ)
2021-02-10 17:59:17
法に矛盾がある様に、死刑を廃止しても、悪や冤罪はなくならないし、むしろ増えるでしょう。
巨悪と結びついた権力を処刑する為にも、一部の権力者に特化した死刑制度には賛成です。但し、弱い立場の庶民の死刑には矛盾や不公平が多すぎるので反対ですね。

つまり、数学的思考ではないのですが、死刑制度も場合分けして考えれば、矛盾も不公平も少なくなるとは思います。つまり、賛成と反対という二項定理だけでは決められない。
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