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ガウスとアーベルから受け継いだガロア理論〜エヴァリスト・ガロアを巡る旅、その14

2021年05月24日 04時17分48秒 | エヴァリスト・ガロア

 3月18日以来のガロアを巡る旅ですが、前々回”その13”では、”複素数を許すなら全てのn次方程式の解を保証する”というガウスの発見こそが、”5次以上の方程式には四則とべき根(ルート)で求める解法は存在しない”という、僅か17歳の青年が発見した「不可能の証明」であるガロア理論に結びつく事を説明しました。
 しかし”異次元の天才”ガロア同様に、”500年先を行く天才”アーベルも僅か18歳の時に、つまりガロアの6年ほど前に、未完全ながらこの事を証明し、僅か6頁の短い冊子として自費出版しました。
 結果としてガロアは、ガウスとアーベルとヤコビの円周等分理論の研究を継承した形で、代数方程式の解法を導き出したんです。

 今日は少し脱線しますが、n次方程式を解くという行為が実は、ガウスの円周等分方程式(円分方程式)の研究から始まった事について述べてみたいと思います。
 以下、「クロネッカーの数論の解明(PDF)」と「人生の答えは1つじゃない」に寄せられたコメントを参考にしてます。 

 
ガウスの円分方程式と代数的可解性

 ガウスは若干19歳の時、”正17角形が定規とコンパスで作図できる”事を証明し、世界を驚愕させます。というのも正素数角形の作図は正3角形と正5角形しかできないと考えられてたからで、数世紀ぶりの快挙でした。
 それにもっと凄い所は、この証明を代数的に解いた事でした。つまり、四則演算とべき根だけで解き明かしてみせたんです。
 ガウス青年は、とっさにx¹⁷−1=0という円分方程式を考え、x¹⁷−1=(x-1)(x¹⁶+x¹⁵+・・・x²+x+1)に因数分解し、x¹⁶+x¹⁵+・・・x²+x+1=0の16個の解(原始解)が自明な解(x=1)に加え、正17角形の頂点をなす事に気づきます。
 x=1以外の16個の解を元とすれば、位数(元の個数)が17(素数)の巡回群をなし、対称性を持つ事が分かります。その対称性を利用し、円分方程式の16の次数を下げ、2次方程式の組み合わせに帰着させて、解を導き出しました。
 ごく判り易く言えば、図形を表す方程式がべき根と四則演算で解を得られないなら、その図形はコンパスと定規では描けないという事です。

 ガウスは円周等分の延長として、レムニスケート曲線の等分を狙ってました。
 因みに、レムニスケート曲線(連珠形)とはベルヌイ兄弟により最初に発見され、ファニャノ(伊)により楕円積分論の事例として初めて研究された。オイラーはファニャノに刺激を受け、微分方程式論を発展させます。
 実はガウスも、ファニャノの研究には気付いてましたが、彼の洞察はもっと先を行くものでした。
 ”何故、レムニスケートのn等分がn次ではなく、n²次の方程式が生ずるのか?”
 この疑問を解く為に、ガウスはレムニスケート関数を複素関数として考察する一大決心をします。ここに現代数学へと繋がる複素関数論が大きく芽生えます。
 ガウスは、まず円周等分多項式が巡回方程式である事を明示し、その為に原始根が用いられるが、その事実から2項方程式(ラグランジュの分解式)への還元を遂行しました。
 円周等分多項式が”円周をn等分するn個の(複素)解を持つ”という代数的可解性が、これにより確定します。

 その20年後、アーベルも同じ様な疑問から楕円関数を発見します。
 因みに、ルジャンドルは楕円関数の逆関数が積分の形をしてるので楕円積分と名付けましたが、アーベルはそのまま楕円関数と呼んでました。
 元々、楕円の孤長を表す式が積分の形をしてる事から楕円積分と呼ばれてますが。厳密に言えば、楕円弧長関数と呼んだ方がいいのかもしれません。
 この逆関数が複素平面上では、2重周期を持つ三角関数である事を、ガウスを始め、アーベルやヤコビが発見しました。


ガウスからアーベル、そしてガロアへ

 アーベルの「5次以上の方程式には解の公式は存在しない」(1820)という(未完の)証明の背景には、彼の楕円積分に関する研究が大きく横たわっていました。
 というのも四則とべき根(ルート)に加え、楕円積分(とテータ関数)を使う事で、5次方程式の解の公式を導き出せるからです。
 それに加え、アーベルは「ある特殊な代数的可解方程式」に関する論文で、ガウスの足取りの延長上に、アーベル方程式(可換条件を満たす方程式)の一般概念を発見します。
 これこそが、アーベルが発見した楕円関数(楕円積分)の等分方程式の代数的可解条件の事でした。
 この等分理論は、ガウスの”円周等分多項式は円関数のみならず楕円積分などの超越関数にも適用できる”(「整数論」第7章)が働いてる結果でもありました。
 つまり、アーベルはガウスの手法に倣い、代数的可解性を発見したんです。
 ガウスがアーベルの発見に憤りを示したのは、短く省略された(未完の)証明ではなく、”上手く裏をかかれた”という無念さがあったのかもです。

 ガロアもアーベルと同様に、既約方程式の代数的可解性をガロア理論の応用として導いていました。
 但し既約方程式とは、これ以上因数分解できない多項式の事で、可約方程式とは区別します。”既約=既に割り切れてる”と理解すれば簡単ですね。
 ガロアの定理とされる”全ての根が2個の有理関数として表記される”という「根の相互作用」は、実はアーベルが既に「楕円関数の周期等分方程式」の論文の中で述べてました。
 当のガロアもアーベルの指摘を知っていたとされます。
 というのもガロアは、”素次数の既約方程式がべき乗根で解けるならば、方程式の全ての根が2根の有理式で表せる”事も証明してました。

 代数的解法という観点で言えば、ガウスは”もし円分方程式の次数がフェルマー数である2^(2ⁿ)+1の形の素数なら、円分方程式が平方根のみで解ける”事を予想しました。
 つまりガウスは、代数方程式の(代数的)可解性の基本的な条件を探り、と同時に(アーベルやガロアと同様に)可解性を否定する理論を追い求めたんではないか。
 一方で、”ヤコビの楕円関数のモジュラ方程式(周期等分方程式)は代数的に可解ではない”というアーベル予想は、ガロアの”5次以上の方程式は代数的に可解ではない”という「不可能の証明」に結びつき、大きな花を咲かせました。

 結局、ガウスからアーベルとヤコビ、そしてガロアに受け継がれた等分方程式論はそっくりそのまま、n次方程式の代数的解法へと継承されたんですね。


決闘前夜の3つの論文と遺書

 上で述べた様に、ガロアは「不可能の証明」だけでなく、ガウスの等分理論やアーベルの楕円関数論も熱心に研究してました。
 僅か17歳で第一論文「べき根で方程式が解ける条件について」を執筆し、20歳の死ぬ直前に書いた親友のオギュースト・シュバリエへの手紙には、3つの論文に自らの研究を纏めました。
 1つは、今やガロアの遺書として有名な第一論文である、”5次以上の方程式は代数的に可解ではない”という「不可能の証明」で、2つ目は楕円関数のモジュラー方程式の応用を含んだもの。3つ目は、積分により定義された楕円関数です。
 以下、「ガロアの論文を読んでみた」(写真)を一部参考にしてます。

 ガロアは特に、第一論文を数学的遺書として公開する様に、シュバリエに頼みます。
 事実ガロアの死後、第一論文は百科全書誌に搭載され、多くの数学者に送付されますが、これといった反応はなかった。
 1846年、リュヴィルが「ガロア全集」を出版すると、1857年にデデキントはゲッチンゲン大学でガロア理論を講義した。
 この講義こそが、”ガロア理論を体の自己同型群と捉えた”画期的なもので、以降、ガロア理論 は方程式を離れ、大きく成長していく。
 特にガロアの群論は、その後の科学の発展に大きな影響を与え、今や相対性理論や量子力学に必要不可欠なものとなります。
 この時代を超越した論文が評価されるまで、何十年という歳月を要した。というのも記述が極めて簡潔で、証明も省略が多く、多くの数学者が難解だと感じたんです。

 ガロアは17歳の時に、この第一論文をパリアカデミーに提出しましたが、審査委員長コーシーの論文の紛失により、絶対の自信は泡と帰します。
 落ち込んだガロアは自暴自棄になり、パリ工芸学校の試験に2度続けて失敗します。翌年の18歳の時、グランプリに応募するも審査員のフーリエの死により、またも論文は紛失されてしまう。
 更に19歳の時、再びアカデミーに提出するも、審査員のポアソンは”明晰を欠き、十分な厳密性を持ってない”として、跳ね返されてしまう。
 この時ガロアは、政治犯として収容されていた時期でした。彼には腐敗堕落したフランスの権力層と、権威にしがみつく尊大な既成の数学者の姿が重なって見えたに違いない。

 ガロアを理解してたとされるコーシーはともかく、ポアソンほどの数学者が17歳の天才青年が書いた論文を理解できない訳がない。しかし、ガロアの時代を超越した意図を受け入れる事ができなかったのは明らかだろう。
 勿論、ガロア理論の仕組みと答えを知ってれば、ガロア理論は高校生の延長の数学の知識でも理解できるかもしれない。

 ガロアは、方程式の解を互いに置き換える操作(置換)を群と考え、この置換群(後のガロア群)の性質を調べさえすれれば、方程式が係数の四則演算とべき根だけで解けるかどうかを判定できるのではと考えました。
 この置換群(ガロア群)の部分群が正規部分群(右剰余類=左剰余類)の時、その剰余類(”その12”を参照)は群となり、剰余類群の位数(元の個数)が素数の時に巡回群となり、その既約方程式はべき根で解ける。
 つまり、ガロア拡大体の中で置換群は正規部分群へと縮小する。この正規部分群の発見こそがガロア理論の集約です。
 また、方程式がべき根で解ける様な条件を満たす群を可解群と呼び、この言葉を使えば、”方程式がべき根で解ける⇔ガロア群(置換群)が可解群”こそが、ガロアの結論となります。
 勿論、当時のポアソンやフーリエがこの結果を知る由もないが、ガロアは彼らの批判のずっと先を行ってたのである。


俺には時間がない

 ポアソンは、”素次数方程式がべき根で解けると仮定しても、方程式が既約という事とその任意の2根が有理式である事を証明する必要がある。それに、根が解ってなければ進めようがないではないか”とガロアを批判した。
 しかしガロアは、計算して解を求めるではなく、計算によって出来る事はオイラーが全てやり尽くした。”未来の数学は計算の上を飛ぶ事だ”と遺書にも記している。

 ”僕の理論は超越的な解析への応用に向けられている。これにより探求可能な多くの不可能性が直ちに判断できる様になる。
 しかし僕には時間がないし、僕の思考はこの広大な領域の中で十分に展開されてはいない・・・
 これまで様々な危険を犯してきた。ここで書いた定理が正しいかどうかではなく、その重要性について、ヤコビかガウスに問うてほしい”

 つまり、ガロアはアーベルのパリの論文がアカデミーに無視されたのを知ってました。アーベルの親友のヤコビが審査員のルジャンドルに憤慨したのもです。
  故に、アーベルの死を継承する形でガロアは、ヤコビの名を告げたんでしょうか。

 結局、アーベルとガロアという2人の若き天才は、数学者として殆ど同じ様な悲運な境遇の中を歩んだ事になります。
 しかし、ガウスからアーベルとヤコビ、そしてガロアに受け継がれた超越的時限の数学の伝統と考察。
 若き日のアーベルやガロアの夢は、後の若き数学者にしっかりと受け継がれ、現代数学の基盤を支え続けています。そして、これからも大きく飛躍するであろう。

 人生の答えもその考察を継承する事で、その無限の可能性が大きく広がってる様に思える。
 つまり、生きるとは(先人が)果たせなかった夢を引き継ぐ事かもしれない。 



11 コメント

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ガロア理論とフェルマーの定理 (paulkuroneko)
2021-05-24 06:45:55
ガロア理論は、5次方程式の「不可能の証明」だけでなく、フェルマーの「不可能の証明」をも解く大きなカギとなりました。

フェルマーの最終定理(1637)とは、「Xⁿ+Yⁿ=Zⁿにて、X,Y,Z≠0(整数)、n≧3では解が存在しない」というものです。もちろん証明は、”X,Y,Zに解が存在すれば矛盾”を示すことです。
そこで、解X=a,Y=b,Z=cとし、a,b,cを用いて作られる楕円曲線に関するガロア表現を詳しく考察することで、矛盾が導かれ、ワイルズの証明に繋がりました。

ガロアの「不可能の証明」は、彼の死後60年以上を経て、ワイルズに受け継がれ、大きな花を咲かせました。
ガロアが言い放った”探求可能な多くの不可能が直ちに判断できる”ことがそのまま現実となりました。
もしガロアが生きてたら、フェルマーの定理も証明してたでしょうか。
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paulさん (象が転んだ)
2021-05-24 07:42:44
長々とした記事にコメント有り難うです。
ガロアがアーベルの後を追ってたのは間違いないですね。
どちらかでも長く生きてたら、フェルマーの定理は1800年代中盤で解かれてた事でしょうね。
でも僅か3年で、2人の超越した数学者を失ったんです。彼らが今に生きてたら、現代数学は全ての学問を通り越してたでしょうね。
書く度に惜しい思いがします。
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計算の上を行く数学 (HooRoo)
2021-05-28 08:23:20
ガロアって生まれたときから
神様のはるか上を行く数学者だったのよ
未だに数学って
計算する学問だと思ってる人が多く
数学者の中にも計算バカが随分といるわね
延々と機械みたいに計算するオジ様が・・・👅
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Hooさん (象が転んだ)
2021-05-28 12:29:10
でもね
実際に紙に書いて計算するって、とても大切な事なんですよ。
私も関数式を延々と眺める変なオジサンだけど(笑)、そうやって数学は成長してきたんです。
つまり、バカにならないとやってられない学問なんです👅
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フェルマーの最終定理 (UNICORN)
2021-05-28 15:38:55
をわかりやすく言えば
楕円関数がモジュラー形式であれば、フェルマーの方程式が整数解を持たないという事です。
特にモジュラー形式とは保型形式の一部で、この保型形式の定義がとてもややこしい。

すべての楕円関数(方程式)はモジュラー形式であるべきとしたのは、”谷山=志村予想”だけど、この証明は不可能だとされてました。
しかし、この難関不洛の予想を帰納法で解いたのがワイルズであり、めでたくフェルマーの最終定理の解決に漕ぎつけます。

ここにしてワイルズはアーベルやガロアと同じで、不可能を可能とした伝説の男となったです。
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訂正 (UNICORN)
2021-05-28 18:42:08
致命的な勘違いをしてました。
楕円関数ではなく、楕円曲線でしたね。
恥ずかしながら訂正です。

因みに、楕円曲線とは楕円の事ではなく、種数1の(非特異射影)代数曲線の事でした。
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UNICORNさん (象が転んだ)
2021-05-29 06:07:51
私め少し調べました。 

 1984年、ゲルハルト・フライ(独)は、”谷山=志村予想を証明する事がフェルマーの最終定理の証明に繋がる”と主張します。
 もし谷山=志村予想が証明されれば、全ての楕円曲線はモジュラー(保型)形式でなければならない。次に、もし全ての楕円曲線がモジュラー形式なら、フライ曲線は楕円曲線にはなりえない。
 フライの楕円曲線が存在しなければ、フェルマーの方程式(aⁿ+bⁿ=cⁿ,n≥3)を満たすa,b,cの自然数の組(解)は存在しない。   
 故に、フェルマーの最終定理は成り立つ。

 フライ曲線とは、フェルマーの最終定理が成立しないと仮定した時、フェルマー方程式を満たすa,b,cが存在し、y²=x(x−aⁿ)(x+bⁿ)を満たす曲線の事です。但し、a,bは自然数より、x(x−aⁿ)(x+bⁿ)=0の解x=0,aⁿ.bⁿは重根を持たない。
 もしフライ曲線が楕円曲線であるならば、y²=X³+AX+Bの形で示され、かつX³+AX+B=0が重根を持たない。
 ここで、X=x−(bⁿ−aⁿ)/3とおけば(計算ややこしいですが)、上の2つの条件が満たされ、もしフェルマーの最終定理が成立しないと仮定すれば、フライ曲線は楕円曲線となります。

 フェルマーの最終定理が成り立たない時は、自然数a,b,cの2つずつが互いに素なものの存在が知られてます。
 そこで、aとbが互いに素なら、フライ曲線は重根を持ち得ない。故に、フライ曲線が楕円曲線になる。
 よって、フライ曲線が楕円曲線になり得ないなら、フェルマーの最終定理が成り立ちます。

 ワイルズは1995年に”半安定”と呼ぶ性質をもつ楕円曲線について”志村=谷山予想”を証明します。 一方で、aとbが互いに素より、フライの楕円曲線は半安定となる。
 故に、ワイルズの証明からフライの楕円曲線は存在しえず、フェルマの最終定理は完全に証明されました。

 少し長くなりましたが、詳しくは下記のHPも参考です。
https://qiita.com/simanezumi1989/items/63e08a935613148ee9d7
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結局 (UNICORN)
2021-05-29 12:04:50
フライの楕円曲線が半安定である事から、”安定した”モジュラ形式を持つ楕円曲線にはなり得ない事がわかる。
故に、ワイルズが証明した志村=谷村予想からフェルマーの最終定理が導ける。

という事でいいのかな。転んだ君
フォローどうもありがとう。
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UNICORNさん (象が転んだ)
2021-05-29 14:57:58
急いで書いたんで、不明瞭な部分もありますが、私が書いたのよりもずっとシンプルでわかりやすいですね。

元々楕円曲線とは、y²=x³+ax²+bx+c(a,b,c有理数)で与えられる曲線で、右辺=0(xの多項式)が重根を持たないものをいうんですが、楕円どころか一般的で言う曲線でもないんですよね。
こちらこそ有り難うです。
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楕円曲線と重根とフェルマーの定理 (paulkuroneko)
2021-05-30 07:16:03
楕円関数は(右辺のxの多項式が)重根を持たないことが条件ですが。
安定(pを法として重根を持たない)と半安定(同、重根はもつが3重根は持たない)と不安定(同、3重根を持つ)の3種に分けられるようですね。

その中でモジュラ形式(お行儀のいい)なのは安定の奴だけで、フライの楕円曲線は半安定だから、モジュラにはなりえない。故に志村・谷村の命題より、フェルマーの最終定理が導けます。

ワイルズはモジュラ形式ではなく、(フェルマーの最終定理が成立しないなら)フライの楕円曲線のa,bの組の解が互いに素であることに着目し、半安定であるを証明したんですね。
結局、志村・谷村の命題のある部分だけを証明すればよかった事になる。

お陰で色々と勉強になります。
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