鈴木おさむがインタビュアーを担当している『Amebaスマホ』のCMが嫌いだ。
嫌いというか酷いというか、単にインタビューしているだけだし、答える女子たちも可愛かろうが可愛くなかろうが、面白いことひとつも発せず、
まぁ安上がりなのだろう、しかし、これでCMとして成立することが腹立たしい。
それ系?(グリーなど)の安直なCMについては前から書いているけれども、
こういうの流された途端にチャンネルを変える癖がついちゃったもんね、先日もそうしたのだが、
その変えたチャンネルで『ドロリッチ』のCM(トップ画像)が流れていて、お、ラッキー♪ みたいな。
なんなのか、単に美女が好きというだけなのか。
まぁ間違ってはいないが、コトはそう単純ではなく。
一部の映画ファンのあいだで「ひじょーに」評判の悪い映画予告編のテレビ版、
試写会から出てきた一般人つかまえて「感動しました!」「今年、最高の映画です!」とかいわせるアレ、自分も大っっっっっっ嫌いなのだった。
期待値10の映画でも、あれをやられると萎える。期待値が1あるいは2くらい「確実に」落ちる。
いや『Amebaスマホ』同様、べつにインタビュー形式がダメだといっているんじゃない。
商品自体に「そこそこ」の価値があると評価されている、だからCMは「これくらいで、いいっしょ?」というような、ヤッツケ感が見えてくるのである。
それでいて中途半端に「効果」を期待する、
だから「観客の声」だけでは飽き足らず、わざわざ客席でカメラを回し「観客の表情」を捉えるCMまで創る流れが出来ちゃった。
シリアス/ホラーに多いが、泣いたり驚いたりする観客が「防犯カメラのような映像」で流れるでしょ。
どっきりカメラじゃないんだからさぁ、趣味が悪いよ。
あれも演出なのだから、効果があれば文句はない、、、っちゃあ、ないけれど・・・効果あるのかなぁ。
あるとは思えないけれどなぁ!
そして思う、受け手は、ずいぶんとなめられているものだねぇ、、、と。
ここからはテレビ用ではなく、劇場用に創られた映画の予告編について。
昔から映画と同じくらい映画予告編が好きだったが、友人が予告編制作のプロになってから、その関心はさらに強くなっている。
彼は既に中堅となり、数年前には会社を代表してハリウッドの研修に行ってきたらしい。
そこで思い知ったというのだ、日本の予告編制作における方程式は中学生レベルでしかないと。
なにを見せてなにを見せないか。
見せるにしても、何秒見せればいいのか。
サウンドトラックから、なにを流せばいいのか。
受け手のプロファイリングまで作成しており、対象とする年齢にあわせて方程式でちゃちゃちゃっと創っていく。
あっという間に出来るがヤッツケではなく、徹底したリサーチ、つまり準備が完璧であるがゆえの大量生産。
映画を愛するアーティストが、技術屋が作った方程式を用いて予告編を創っていく・・・という流れが完璧に出来上がっている。
すげー。
合理主義が極まった米国らしい―と斜に構えることも出来るけど、ここは真似していいんじゃないか。そういう意味では、不愉快といったこともある「日本よ、これが映画だ」ということばは真理、、、なのかもしれない。
いい映画や小説って、創り手の愛やら野心やらまで感じ取ることが出来るじゃない。
それはやっぱり、CMでも予告編でも同じだと思うのだが。
※期待値9が、10になった好例。ほんとうによく出来た予告編。
本編はクライマックス直前に「おおいなる転調」をやってのけるが、この予告も同じように創られている。
これは、本編そのものを愛しているクリエイターによるものだと思う、ゼッタイ。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『○●の日に観たい映画』
嫌いというか酷いというか、単にインタビューしているだけだし、答える女子たちも可愛かろうが可愛くなかろうが、面白いことひとつも発せず、
まぁ安上がりなのだろう、しかし、これでCMとして成立することが腹立たしい。
それ系?(グリーなど)の安直なCMについては前から書いているけれども、
こういうの流された途端にチャンネルを変える癖がついちゃったもんね、先日もそうしたのだが、
その変えたチャンネルで『ドロリッチ』のCM(トップ画像)が流れていて、お、ラッキー♪ みたいな。
なんなのか、単に美女が好きというだけなのか。
まぁ間違ってはいないが、コトはそう単純ではなく。
一部の映画ファンのあいだで「ひじょーに」評判の悪い映画予告編のテレビ版、
試写会から出てきた一般人つかまえて「感動しました!」「今年、最高の映画です!」とかいわせるアレ、自分も大っっっっっっ嫌いなのだった。
期待値10の映画でも、あれをやられると萎える。期待値が1あるいは2くらい「確実に」落ちる。
いや『Amebaスマホ』同様、べつにインタビュー形式がダメだといっているんじゃない。
商品自体に「そこそこ」の価値があると評価されている、だからCMは「これくらいで、いいっしょ?」というような、ヤッツケ感が見えてくるのである。
それでいて中途半端に「効果」を期待する、
だから「観客の声」だけでは飽き足らず、わざわざ客席でカメラを回し「観客の表情」を捉えるCMまで創る流れが出来ちゃった。
シリアス/ホラーに多いが、泣いたり驚いたりする観客が「防犯カメラのような映像」で流れるでしょ。
どっきりカメラじゃないんだからさぁ、趣味が悪いよ。
あれも演出なのだから、効果があれば文句はない、、、っちゃあ、ないけれど・・・効果あるのかなぁ。
あるとは思えないけれどなぁ!
そして思う、受け手は、ずいぶんとなめられているものだねぇ、、、と。
ここからはテレビ用ではなく、劇場用に創られた映画の予告編について。
昔から映画と同じくらい映画予告編が好きだったが、友人が予告編制作のプロになってから、その関心はさらに強くなっている。
彼は既に中堅となり、数年前には会社を代表してハリウッドの研修に行ってきたらしい。
そこで思い知ったというのだ、日本の予告編制作における方程式は中学生レベルでしかないと。
なにを見せてなにを見せないか。
見せるにしても、何秒見せればいいのか。
サウンドトラックから、なにを流せばいいのか。
受け手のプロファイリングまで作成しており、対象とする年齢にあわせて方程式でちゃちゃちゃっと創っていく。
あっという間に出来るがヤッツケではなく、徹底したリサーチ、つまり準備が完璧であるがゆえの大量生産。
映画を愛するアーティストが、技術屋が作った方程式を用いて予告編を創っていく・・・という流れが完璧に出来上がっている。
すげー。
合理主義が極まった米国らしい―と斜に構えることも出来るけど、ここは真似していいんじゃないか。そういう意味では、不愉快といったこともある「日本よ、これが映画だ」ということばは真理、、、なのかもしれない。
いい映画や小説って、創り手の愛やら野心やらまで感じ取ることが出来るじゃない。
それはやっぱり、CMでも予告編でも同じだと思うのだが。
※期待値9が、10になった好例。ほんとうによく出来た予告編。
本編はクライマックス直前に「おおいなる転調」をやってのけるが、この予告も同じように創られている。
これは、本編そのものを愛しているクリエイターによるものだと思う、ゼッタイ。
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明日のコラムは・・・
『○●の日に観たい映画』