第15部「原一男の物語」~第1章~
「『ゆきゆきて神軍』は、僕が生涯観た映画のなかでも最高のドキュメンタリーだ」(マイケル・ムーア)
「神軍というのは、つまり天皇制よりも上の考えかたであると。神様の国をつくるための、自分は平等兵であると。つまりその天皇制よりも上位の観念を持っているというのを水戸黄門の印籠みたいにして、自分の方が正義であると信念を持つことでエネルギーに変えていくというか、それが彼の自己解放につながっていったわけです」(原一男。「彼」とは、奥崎謙三のこと)
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高校生のころにレンタルビデオ店で「何気なく」手に取ったドキュメンタリー映画、『ゆきゆきて、神軍』(87)。
その日の深夜、居間の大画面テレビでイヤホンをつけてこの映画を鑑賞していると、書斎から顔を出した父親が興味を抱いてしばらく「無音」状態でブラウン管を見つめていた。
しかし映画の主人公、奥崎謙三の逮捕歴が大写しにされるタイトルクレジットが流れると、
「父さんはこういうの、苦手だ」
と呟いて、書斎に戻ってしまった。
その2時間後―『ゆきゆきて、神軍』が、筆者にとっての日本映画ベストワンになっていた。
それは今でも変わらず、たぶん死ぬまで不動であり続けるだろう。
この映画を他者に薦めるのは、たいへんに勇気が要る。
淀川長治が「監督の冷たさが気に入らない」から大嫌い、といった作品である。
しかしマイケル・ムーアはこの映画を観てドキュメンタリーの世界に魅せられ、
筆者の友人Yも、筆者が薦めた翌日にこの映画を観て、それから映画作家を目指すようになった。
好きは大好き、嫌いは大嫌い―ということなのだろうが、ただひとついえるのは、映像のインパクトという点において、『ゆきゆきて、神軍』はメガトン級であること。
いや訂正、それはこの映画にかぎってのことではない。
原一男の映画は、いつだって破壊力抜群。本人は「アクション・ドキュメンタリー監督」を自称するが、筆者は映像兵器を創りだすテロリストだと解釈している。
…………………………………………
ドキュメンタリーって、なんだろう。
「事実をありのままに撮った映像作品」というが、果たしてほんとうだろうか。
映像表現に多く触れるようになった10代のころ、ずっと考えていたことである。
日常生活を撮ったとして。
そこにカメラが介在するだけで、昨日や一昨日ではない空間が出来上がるのではないか。
カメラを意識すればするほど、ひとは普段とは異なる言動を取り「がち」で、しかもそうして撮られた映像は、監督の「都合のいいように」編集され、場合によっては音楽までつけられる。
これでは「事実っぽい虚構」である、劇映画と変わらないじゃないかと。
いかにも理屈っぽい映画小僧が考えそうなことだが、随分と真剣に悩んだ。
そんなときに出会ったのが原一男の映画であり、彼の映画は、ドキュメンタリーも結局は劇映画の一ジャンルに過ぎないと教えてくれたのである。
一瞬、それは原の本意ではないかもしれない・・・とも思ったが、いやいや、『ゆきゆきて、神軍』には「スローモーション」という明らかに劇映画「的」な技術まで用いられているじゃないか、やはり原は「そのこと」に自覚的であり、劇映画のようにドキュメンタリーを、ドキュメンタリーのように劇映画を撮っているのだと理解した。
確かに『ゆきゆきて、神軍』は過激な映画である。
戦争で生き残った「自称」神軍平等兵・奥崎謙三が、かつての上官を訪ねて部下を「終戦後に」処刑した経緯について問い質す。
口ごもったり話題をそらそうとすると制裁のパンチが振るわれ、挙句「モノゴトをいい方向に向かわせる暴力は、おおいに振るう」と発する。
この映画を嫌いだというひとの大半は、
奥崎の人間性に対して嫌悪を抱き、また、
カメラの向こうで暴行されている老人が居るというのに、それを止めもせずにカメラを回し続ける原の(やはり)人間性に対して嫌悪というか疑問を抱いている、、、のだと思われる。
よく分かるが、筆者はそれ以上に、ドキュメンタリーも劇映画のひとつであると提示する原の「映画哲学」にガツンとやられてしまったのだった。
そんな原と奥崎を引き合わせたのがイマヘイ今村昌平というのが、面白いというか、ちょっと出来過ぎている。
なぜならイマヘイは、ドキュメンタリーを「擬似」で捉えた『人間蒸発』(67)を撮っているのだから。
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すべてのドキュメンタリーが「そういう哲学」で撮られているとは思わない。
むしろ原映画は異色、ほかの多くのドキュメンタリー作家は可能なかぎり「事実だけ」を捉えようとしているはずで、たとえば『選挙』(2006)や『精神』(2008)を撮った想田和弘は自作を「観察映画」と名づけており、そのキャリアから作家性を探ることは出来るが、個々の作品から作家性を探ることは不可能なほど「個」を消し去っているのである。
このあたりの解釈は識者も共通しているようで、『キネマ旬報』の年間総括では、原映画は劇映画のランキングに登場している。
「記録映画」のランキングがある、にも関わらず―である。
そんなカワリモノは、なぜドキュメンタリーの世界に入ったのか。
劇映画をやりたければ、純然たる劇映画を撮ればいいのではないか。
原一男の精神性に、少しでも迫ることが出来ればいいと思っている。
…………………………………………
つづく。
『ゆきゆきて、神軍』より
次回は、1月上旬を予定。
…………………………………………
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『夜ごとの美女』
「『ゆきゆきて神軍』は、僕が生涯観た映画のなかでも最高のドキュメンタリーだ」(マイケル・ムーア)
「神軍というのは、つまり天皇制よりも上の考えかたであると。神様の国をつくるための、自分は平等兵であると。つまりその天皇制よりも上位の観念を持っているというのを水戸黄門の印籠みたいにして、自分の方が正義であると信念を持つことでエネルギーに変えていくというか、それが彼の自己解放につながっていったわけです」(原一男。「彼」とは、奥崎謙三のこと)
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高校生のころにレンタルビデオ店で「何気なく」手に取ったドキュメンタリー映画、『ゆきゆきて、神軍』(87)。
その日の深夜、居間の大画面テレビでイヤホンをつけてこの映画を鑑賞していると、書斎から顔を出した父親が興味を抱いてしばらく「無音」状態でブラウン管を見つめていた。
しかし映画の主人公、奥崎謙三の逮捕歴が大写しにされるタイトルクレジットが流れると、
「父さんはこういうの、苦手だ」
と呟いて、書斎に戻ってしまった。
その2時間後―『ゆきゆきて、神軍』が、筆者にとっての日本映画ベストワンになっていた。
それは今でも変わらず、たぶん死ぬまで不動であり続けるだろう。
この映画を他者に薦めるのは、たいへんに勇気が要る。
淀川長治が「監督の冷たさが気に入らない」から大嫌い、といった作品である。
しかしマイケル・ムーアはこの映画を観てドキュメンタリーの世界に魅せられ、
筆者の友人Yも、筆者が薦めた翌日にこの映画を観て、それから映画作家を目指すようになった。
好きは大好き、嫌いは大嫌い―ということなのだろうが、ただひとついえるのは、映像のインパクトという点において、『ゆきゆきて、神軍』はメガトン級であること。
いや訂正、それはこの映画にかぎってのことではない。
原一男の映画は、いつだって破壊力抜群。本人は「アクション・ドキュメンタリー監督」を自称するが、筆者は映像兵器を創りだすテロリストだと解釈している。
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ドキュメンタリーって、なんだろう。
「事実をありのままに撮った映像作品」というが、果たしてほんとうだろうか。
映像表現に多く触れるようになった10代のころ、ずっと考えていたことである。
日常生活を撮ったとして。
そこにカメラが介在するだけで、昨日や一昨日ではない空間が出来上がるのではないか。
カメラを意識すればするほど、ひとは普段とは異なる言動を取り「がち」で、しかもそうして撮られた映像は、監督の「都合のいいように」編集され、場合によっては音楽までつけられる。
これでは「事実っぽい虚構」である、劇映画と変わらないじゃないかと。
いかにも理屈っぽい映画小僧が考えそうなことだが、随分と真剣に悩んだ。
そんなときに出会ったのが原一男の映画であり、彼の映画は、ドキュメンタリーも結局は劇映画の一ジャンルに過ぎないと教えてくれたのである。
一瞬、それは原の本意ではないかもしれない・・・とも思ったが、いやいや、『ゆきゆきて、神軍』には「スローモーション」という明らかに劇映画「的」な技術まで用いられているじゃないか、やはり原は「そのこと」に自覚的であり、劇映画のようにドキュメンタリーを、ドキュメンタリーのように劇映画を撮っているのだと理解した。
確かに『ゆきゆきて、神軍』は過激な映画である。
戦争で生き残った「自称」神軍平等兵・奥崎謙三が、かつての上官を訪ねて部下を「終戦後に」処刑した経緯について問い質す。
口ごもったり話題をそらそうとすると制裁のパンチが振るわれ、挙句「モノゴトをいい方向に向かわせる暴力は、おおいに振るう」と発する。
この映画を嫌いだというひとの大半は、
奥崎の人間性に対して嫌悪を抱き、また、
カメラの向こうで暴行されている老人が居るというのに、それを止めもせずにカメラを回し続ける原の(やはり)人間性に対して嫌悪というか疑問を抱いている、、、のだと思われる。
よく分かるが、筆者はそれ以上に、ドキュメンタリーも劇映画のひとつであると提示する原の「映画哲学」にガツンとやられてしまったのだった。
そんな原と奥崎を引き合わせたのがイマヘイ今村昌平というのが、面白いというか、ちょっと出来過ぎている。
なぜならイマヘイは、ドキュメンタリーを「擬似」で捉えた『人間蒸発』(67)を撮っているのだから。
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すべてのドキュメンタリーが「そういう哲学」で撮られているとは思わない。
むしろ原映画は異色、ほかの多くのドキュメンタリー作家は可能なかぎり「事実だけ」を捉えようとしているはずで、たとえば『選挙』(2006)や『精神』(2008)を撮った想田和弘は自作を「観察映画」と名づけており、そのキャリアから作家性を探ることは出来るが、個々の作品から作家性を探ることは不可能なほど「個」を消し去っているのである。
このあたりの解釈は識者も共通しているようで、『キネマ旬報』の年間総括では、原映画は劇映画のランキングに登場している。
「記録映画」のランキングがある、にも関わらず―である。
そんなカワリモノは、なぜドキュメンタリーの世界に入ったのか。
劇映画をやりたければ、純然たる劇映画を撮ればいいのではないか。
原一男の精神性に、少しでも迫ることが出来ればいいと思っている。
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つづく。
『ゆきゆきて、神軍』より
次回は、1月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『夜ごとの美女』