26年11月4日生まれ・2003年7月11日死去、享年76歳。
長野出身。
「怪優」として、映画史に名を刻むひと。
たとえばクラウス・キンスキーとか、日本では伊藤雄之助、
存命のひとでいえば田口トモロヲとか、嶋田久作とか。
嶋田「帝都」久作は、ちょっともったいない感じがしますけれどね、ハリウッドであればオファーかかりまくり・・・のはずなのに、日本は使いあぐねている。
殺人鬼が覆面取ったら、素顔のほうが怖かった―なんて展開、最高じゃないですか。
小松方正(こまつ・ほうせい)さんもまた、「怪優」と呼ばれたひとでした。
あの低音ボイスですからね、イヤな感じのキャラクターを演じさせたらピカイチで、
ただ自分の世代の映画小僧は、オオシマ映画などでアクの強い俳優だと認識する前に、たとえばアニメ『ポパイ』のブルート、あるいは成龍ジャッキーの初期作品における師匠役の「声優」として、このひとの名前を覚えたのです。
※まーず、保存状態のよいこと!
<経歴>
実家は貧しく、10代前半で上京し書生として住み込みをしながら中学に通う。
卒業後に満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社、しかし結核を患い退社、帰国後に海軍へ。
20年8月6日―その前日に居た広島が新型爆弾を落とされたことを知り、衝撃を受ける。
終戦後、大蔵省管理局へ転官となり、周囲が東大出身者ばかりだったことから猛勉強を始め、役人のまま中央大学法学部へ。
このころに演劇の世界を知り、魅了されていく。
ここからは、映画の世界に限定して。
映画俳優デビュー作は、59年の『二十六人の逃亡者』。
60年にオオシマと出会い、以降、オオシマ映画の常連―『太陽の墓場』(60)、『飼育』(61)、『絞死刑』(68)、『帰って来たヨッパライ』(68)、『儀式』(71)、『夏の妹』(71)―に。
脇「専門」といっていいひとで、たとえば90分の映画だったとしても、映像のなかでその姿を確認出来るのは5分程度のものもあります。
それなのに、準主役の俳優さんより目立つことも。
ゆえに「怪優」なのでしょう。
最も「加速」したのが60年代~70年代で、
『けものみち』(65)、『花と龍』(65)、『夜霧よ今夜も有難う』(67)、『極道』(68)、『神々の深き欲望』(68)、『心中天網島』(69)、『薔薇の葬列』(69)、『野獣都市』(70)、『ハレンチ学園』(70)、『まむしの兄弟 刑務所暮し四年半』(73)、『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73)、『修羅雪姫』(73)、『少林寺拳法』(75)『不毛地帯』(76)、『任侠外伝 玄海灘』(76)、『青春の門 自立篇』(77)、『限りなく透明に近いブルー』(79)、『太陽を盗んだ男』(79)・・・という具合に、大作からプログラムピクチャー、独立系まで全ジャンルを網羅。
80年代に糖尿病を患い、一時期は手足が自由に動かせないほど深刻な状態に。
しかしそれでも可能なかぎりオファーに応え、『キッドナップ・ブルース』(82)、『さらば箱舟』(84)、『コミック雑誌なんかいらない!』(86)、『文学賞殺人事件 大いなる助走』(89)などに出演。
根っからの演技者だったのだと思います。
『ミンボーの女』(92)、『絵の中のぼくの村』(96)。
2003年7月11日―敗血症のため死去、享年76歳でした。
映画の遺作は『けものがれ、俺らの猿と』(2001)。
アナーキーを狙って大コケした作品ですが、小松さんの演技はナイスでした。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(177)近藤芳正』
長野出身。
「怪優」として、映画史に名を刻むひと。
たとえばクラウス・キンスキーとか、日本では伊藤雄之助、
存命のひとでいえば田口トモロヲとか、嶋田久作とか。
嶋田「帝都」久作は、ちょっともったいない感じがしますけれどね、ハリウッドであればオファーかかりまくり・・・のはずなのに、日本は使いあぐねている。
殺人鬼が覆面取ったら、素顔のほうが怖かった―なんて展開、最高じゃないですか。
小松方正(こまつ・ほうせい)さんもまた、「怪優」と呼ばれたひとでした。
あの低音ボイスですからね、イヤな感じのキャラクターを演じさせたらピカイチで、
ただ自分の世代の映画小僧は、オオシマ映画などでアクの強い俳優だと認識する前に、たとえばアニメ『ポパイ』のブルート、あるいは成龍ジャッキーの初期作品における師匠役の「声優」として、このひとの名前を覚えたのです。
※まーず、保存状態のよいこと!
<経歴>
実家は貧しく、10代前半で上京し書生として住み込みをしながら中学に通う。
卒業後に満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社、しかし結核を患い退社、帰国後に海軍へ。
20年8月6日―その前日に居た広島が新型爆弾を落とされたことを知り、衝撃を受ける。
終戦後、大蔵省管理局へ転官となり、周囲が東大出身者ばかりだったことから猛勉強を始め、役人のまま中央大学法学部へ。
このころに演劇の世界を知り、魅了されていく。
ここからは、映画の世界に限定して。
映画俳優デビュー作は、59年の『二十六人の逃亡者』。
60年にオオシマと出会い、以降、オオシマ映画の常連―『太陽の墓場』(60)、『飼育』(61)、『絞死刑』(68)、『帰って来たヨッパライ』(68)、『儀式』(71)、『夏の妹』(71)―に。
脇「専門」といっていいひとで、たとえば90分の映画だったとしても、映像のなかでその姿を確認出来るのは5分程度のものもあります。
それなのに、準主役の俳優さんより目立つことも。
ゆえに「怪優」なのでしょう。
最も「加速」したのが60年代~70年代で、
『けものみち』(65)、『花と龍』(65)、『夜霧よ今夜も有難う』(67)、『極道』(68)、『神々の深き欲望』(68)、『心中天網島』(69)、『薔薇の葬列』(69)、『野獣都市』(70)、『ハレンチ学園』(70)、『まむしの兄弟 刑務所暮し四年半』(73)、『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73)、『修羅雪姫』(73)、『少林寺拳法』(75)『不毛地帯』(76)、『任侠外伝 玄海灘』(76)、『青春の門 自立篇』(77)、『限りなく透明に近いブルー』(79)、『太陽を盗んだ男』(79)・・・という具合に、大作からプログラムピクチャー、独立系まで全ジャンルを網羅。
80年代に糖尿病を患い、一時期は手足が自由に動かせないほど深刻な状態に。
しかしそれでも可能なかぎりオファーに応え、『キッドナップ・ブルース』(82)、『さらば箱舟』(84)、『コミック雑誌なんかいらない!』(86)、『文学賞殺人事件 大いなる助走』(89)などに出演。
根っからの演技者だったのだと思います。
『ミンボーの女』(92)、『絵の中のぼくの村』(96)。
2003年7月11日―敗血症のため死去、享年76歳でした。
映画の遺作は『けものがれ、俺らの猿と』(2001)。
アナーキーを狙って大コケした作品ですが、小松さんの演技はナイスでした。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(177)近藤芳正』