旧友と20年ぶりに再会したのだが、向こうの第一声が「せんせい!」だったので、ちょっとうろたえた。
同い年。
バイト先で仲良くなった。
たしかに当時から、彼だけが自分のことを「せんせい」と呼んでいた。
学校の先生のほかに、当たり前のように「せんせい」と呼ばれているのは、医師と政治家くらいか。
一般のひとが一般のひとに対し「せんせい」と呼ぶ場合、多少は「逆に、バカにしている」感じが入るものだと思う。
自分も、ある友人のことを「せんせい!」と呼ぶことがあるが、やっぱりバカにしているもん、ちょっとだけ。
この「ちょっとだけ」がポイントで、相手のことを好いているからこその「からかい」なんだと思う。
で、彼の場合はどうか。
自分は、いまでこそ似非とはいえモノカキだが、当時はモノカキでさえなかった。
モノカキになりたくて、暇さえあればモノを書いていたことはたしかだったが。
バイトの休憩中、昼飯も取らずにシナリオを書いていた。
その姿を見て、彼は自分のことを「せんせい」と呼ぶようになったのだった。
たぶん、そう呼び始めたころは「からかい」半分だったんじゃないだろうか。
そう呼ばれた自分も、なんだかこそばゆかった。
ただ初めて「せんせい」などと呼ばれたものだから、悪い気もしなかった。
面白いなぁと思うのは、彼が、自分の影響を受けて私小説を書き始めたことである。
このあたりで、彼の、自分に対する「からかい」は薄れていったのかもしれない。
「からかい」であれば、1年も2年もつづけて呼ぶようなことはなかったろうから。
彼との付き合いは4年程度だったが、別れる直前まで自分のことを「せんせい」と呼んでいた。
そうして、20年ぶりの再会。
彼は、やっぱり自分のことを「せんせい」と呼ぶ。
そうして、こういったのだ。
「ほんとうに、せんせいになった」
いやいや。
文筆を生業にしているが、そんなたいそうなもんじゃない。
さて文学の世界で「せんせい」といえば、やはり漱石の『こころ』だろう。
「先生の遺書」という章があるくらいだからね。
歌では森昌子の『せんせい』、おニャン子の『およしになってねTEACHER』、
映画では古くは『二十四の瞳』(54)、
警察関係者が奥崎さんのことを「せんせい」と呼ぶのが違和感ありありな『ゆきゆきて、神軍』(87)、
成龍に秘技を教える師匠も「せんせい」であろうし、
スマートな金八先生に見えるのは『いまを生きる』(89)のキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)、
学校の先生をジャンル映画のなかに据えたのが、『告白』(2010)や『悪の教典』(2012)なんだと思う。
自分にとってのせんせいは、黒澤とスコセッシ、漱石と松尾スズキ。
やっぱり自分は、誰かを「せんせい」といって崇めるのが相応しい。
「せんせい」と呼ばれるのはね、なんというか、器じゃないんだな。
少し、少しだけ、うれしいことはうれしいのだが。。。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『俳優別10傑 海外「さ行」女優篇(8)』
同い年。
バイト先で仲良くなった。
たしかに当時から、彼だけが自分のことを「せんせい」と呼んでいた。
学校の先生のほかに、当たり前のように「せんせい」と呼ばれているのは、医師と政治家くらいか。
一般のひとが一般のひとに対し「せんせい」と呼ぶ場合、多少は「逆に、バカにしている」感じが入るものだと思う。
自分も、ある友人のことを「せんせい!」と呼ぶことがあるが、やっぱりバカにしているもん、ちょっとだけ。
この「ちょっとだけ」がポイントで、相手のことを好いているからこその「からかい」なんだと思う。
で、彼の場合はどうか。
自分は、いまでこそ似非とはいえモノカキだが、当時はモノカキでさえなかった。
モノカキになりたくて、暇さえあればモノを書いていたことはたしかだったが。
バイトの休憩中、昼飯も取らずにシナリオを書いていた。
その姿を見て、彼は自分のことを「せんせい」と呼ぶようになったのだった。
たぶん、そう呼び始めたころは「からかい」半分だったんじゃないだろうか。
そう呼ばれた自分も、なんだかこそばゆかった。
ただ初めて「せんせい」などと呼ばれたものだから、悪い気もしなかった。
面白いなぁと思うのは、彼が、自分の影響を受けて私小説を書き始めたことである。
このあたりで、彼の、自分に対する「からかい」は薄れていったのかもしれない。
「からかい」であれば、1年も2年もつづけて呼ぶようなことはなかったろうから。
彼との付き合いは4年程度だったが、別れる直前まで自分のことを「せんせい」と呼んでいた。
そうして、20年ぶりの再会。
彼は、やっぱり自分のことを「せんせい」と呼ぶ。
そうして、こういったのだ。
「ほんとうに、せんせいになった」
いやいや。
文筆を生業にしているが、そんなたいそうなもんじゃない。
さて文学の世界で「せんせい」といえば、やはり漱石の『こころ』だろう。
「先生の遺書」という章があるくらいだからね。
歌では森昌子の『せんせい』、おニャン子の『およしになってねTEACHER』、
映画では古くは『二十四の瞳』(54)、
警察関係者が奥崎さんのことを「せんせい」と呼ぶのが違和感ありありな『ゆきゆきて、神軍』(87)、
成龍に秘技を教える師匠も「せんせい」であろうし、
スマートな金八先生に見えるのは『いまを生きる』(89)のキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)、
学校の先生をジャンル映画のなかに据えたのが、『告白』(2010)や『悪の教典』(2012)なんだと思う。
自分にとってのせんせいは、黒澤とスコセッシ、漱石と松尾スズキ。
やっぱり自分は、誰かを「せんせい」といって崇めるのが相応しい。
「せんせい」と呼ばれるのはね、なんというか、器じゃないんだな。
少し、少しだけ、うれしいことはうれしいのだが。。。
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明日のコラムは・・・
『俳優別10傑 海外「さ行」女優篇(8)』