Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

せんせい

2017-06-05 00:10:00 | コラム
旧友と20年ぶりに再会したのだが、向こうの第一声が「せんせい!」だったので、ちょっとうろたえた。

同い年。
バイト先で仲良くなった。
たしかに当時から、彼だけが自分のことを「せんせい」と呼んでいた。


学校の先生のほかに、当たり前のように「せんせい」と呼ばれているのは、医師と政治家くらいか。

一般のひとが一般のひとに対し「せんせい」と呼ぶ場合、多少は「逆に、バカにしている」感じが入るものだと思う。

自分も、ある友人のことを「せんせい!」と呼ぶことがあるが、やっぱりバカにしているもん、ちょっとだけ。
この「ちょっとだけ」がポイントで、相手のことを好いているからこその「からかい」なんだと思う。

で、彼の場合はどうか。

自分は、いまでこそ似非とはいえモノカキだが、当時はモノカキでさえなかった。
モノカキになりたくて、暇さえあればモノを書いていたことはたしかだったが。

バイトの休憩中、昼飯も取らずにシナリオを書いていた。
その姿を見て、彼は自分のことを「せんせい」と呼ぶようになったのだった。

たぶん、そう呼び始めたころは「からかい」半分だったんじゃないだろうか。

そう呼ばれた自分も、なんだかこそばゆかった。

ただ初めて「せんせい」などと呼ばれたものだから、悪い気もしなかった。

面白いなぁと思うのは、彼が、自分の影響を受けて私小説を書き始めたことである。

このあたりで、彼の、自分に対する「からかい」は薄れていったのかもしれない。
「からかい」であれば、1年も2年もつづけて呼ぶようなことはなかったろうから。

彼との付き合いは4年程度だったが、別れる直前まで自分のことを「せんせい」と呼んでいた。

そうして、20年ぶりの再会。
彼は、やっぱり自分のことを「せんせい」と呼ぶ。

そうして、こういったのだ。

「ほんとうに、せんせいになった」

いやいや。
文筆を生業にしているが、そんなたいそうなもんじゃない。


さて文学の世界で「せんせい」といえば、やはり漱石の『こころ』だろう。

「先生の遺書」という章があるくらいだからね。

歌では森昌子の『せんせい』、おニャン子の『およしになってねTEACHER』、

映画では古くは『二十四の瞳』(54)、

警察関係者が奥崎さんのことを「せんせい」と呼ぶのが違和感ありありな『ゆきゆきて、神軍』(87)、

成龍に秘技を教える師匠も「せんせい」であろうし、

スマートな金八先生に見えるのは『いまを生きる』(89)のキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)、

学校の先生をジャンル映画のなかに据えたのが、『告白』(2010)や『悪の教典』(2012)なんだと思う。


自分にとってのせんせいは、黒澤とスコセッシ、漱石と松尾スズキ。

やっぱり自分は、誰かを「せんせい」といって崇めるのが相応しい。

「せんせい」と呼ばれるのはね、なんというか、器じゃないんだな。

少し、少しだけ、うれしいことはうれしいのだが。。。





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明日のコラムは・・・

『俳優別10傑 海外「さ行」女優篇(8)』
コメント (2)
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