トップ画像は、拙著『情の花』の装丁。
中身のことは(無責任に)置いておいて、デザイナーさんには申し訳ないが、いかにも自費出版系の感じがして、ちがうのがよかったなぁ、、、なんて。
さて。
きょう載せるのは、約20年前に刊行した『情の花』を、約10年前にウェブ上で加筆した部分。
さらに10年後のいま、いろいろ訂正したいところが増えているわけだが、敢えてそのまま載せてみる。
…………………………………………
当時の私の心理状態、知識、表現力・・・これらを、今になって補完したところで、どうにもなるものではない。
私が今、恥じている稚拙な表現にも恐らく、何らかの価値が宿っているのではないか―少し大袈裟だが、そんな風にも思うから。
母が亡くなって、7年以上が過ぎている―俄かに信じ難い。
帰郷し、母の死顔を見たあの瞬間から、告別式を終えるまでの、暑い暑い、暑過ぎる3日間の記憶は、どれも鮮明に覚えている。
あれから、いくつかの葬儀に参列した。
若すぎる死も、大往生も、どれも自分には既視感として映る。
葬儀に参列する度に、あの3日間が、頭を支配するのである。
母が死去した翌年、私は『情の花』を共同出版し、自家製の仏壇に供えた―。
拙著を執筆中、私はフリーターだったが、今でもその状況は変わらない。
沢山のアルバイトを経験してきた。
ラブホテルの清掃員を辞めた後は・・・仕分け作業員、引越し作業員、某牛丼屋の店員、違法広告の撤去作業員、いちご大福製造工程における、「いちごのヘタ取り」なんていう、存在自体を知られていないバイトも。
物書きになりたいという夢・・・いや野望は、もちろん今でも抱き続けているが、それはまだ、叶っていない。
時が、止まったようだ・・・しかも、私だけ。
世界は変わり続け、そして、父と姉の生活も、変化していったからだ。
父は、再婚した。
姉は、結婚した。
自分は未だフリーターで、生活状況は、ほとんど変わっていない。
母は、山田洋次や小津安二郎が作り出す、穏やかな映画を愛していた。
申し訳ないとは思いつつ、私はそんな「穏やかさ」とは無縁の、暗くて重くて、時としてえげつないほどに性悪な物語を紡ぎ続けている。
まぁこれは、自分がそんな性だからだと、開き直るしかないのだが・・・。
今の私の状況を、母はどんな表情で見つめているのだろうか―?
父は今年、念願の処女作を、(私と同じ新風舎から)上梓する。
原稿をコツコツと、書き溜めていたのだ。
「オトウサンの味方をしてくれ。応援してくれ」
そんな言葉が綴られた手紙が私の元に届いたのは、母の三回忌が済んだあたりだったか。
様々な理由が重なって、父は再婚を希望していた。
姉も私も、再婚には全面的に賛成だった。
まだ10代であったならば、わだかまりなどが生じたのかもしれない。
だが20歳を過ぎた私が反対する理由などなく・・・そもそも、東京で勝手気ままに暮らしている私などが意見出来るような立場には、居なかったのだが・・・。
牧野家に、再び明かりが灯された―。
父の新しいパートナーは、美恵子さんという、とてもパワフルな女性だった。
なかなか「お母さん」と言えないのが心苦しいが、美恵子さんは私に、「うんと甘えてね」という、心のこもった手紙を送ってくれた・・・。
姉の結婚式は、私の29回目の誕生日直前に行われた。
「ピアノをマスターする」だの、「出来そうにないから、ハーモニカを吹く」だの格好良い宣言をしておきながら、当日まで、何も準備出来なかった。
私は結局、カメラマンとしてあちこちを撮影していたが・・・どうやらカメラマンとしてのセンスは、微塵もないようである。
私は姉の花嫁衣裳を眺め、誰にも気付かれないように、涙した。
まさか、感極まるとは思ってもみなかった。
姉の幸せそうな笑顔が、とても嬉しかった。
母にもこの至福の瞬間を、感じて欲しい―そんな事を考えていたら、感泣してしまったのだ。
そういえば最近、母に話しかける事をしていない。
三回忌法要までの間、私はしょっちゅう、自家製仏壇の前に座り込み、写真の母に向かって、様々な事を話しかけていた。

今でも、毎日水を取り替えるし、線香も上げる。
だがそれは、毎日の習慣となり、「特別なもの」ではなくなってしまった―そこに気付いた時、私は初めて、「あぁ、7年も経ったからなんだろうな・・・」という思いに至ったのだ。
『情の花』とは、母をイメージした時に、私の頭の中に、最初に浮かんだ「名前」である。
久し振りに、母に甘えてみたくなってしまった・・・。
今夜、話しかけてみようか。
母の大好きだった飴やジュースを供え、胡坐をかいて、じっくり向き合ってみよう。
久し振りだから、母は冷たいかもしれない。
7年前と変わらぬ生活をしている自分を、叱りつけるかもしれないよな・・・。
おわり。
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明日のコラムは・・・
『俳優別10傑 海外「は行」女優篇(1)』
中身のことは(無責任に)置いておいて、デザイナーさんには申し訳ないが、いかにも自費出版系の感じがして、ちがうのがよかったなぁ、、、なんて。
さて。
きょう載せるのは、約20年前に刊行した『情の花』を、約10年前にウェブ上で加筆した部分。
さらに10年後のいま、いろいろ訂正したいところが増えているわけだが、敢えてそのまま載せてみる。
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当時の私の心理状態、知識、表現力・・・これらを、今になって補完したところで、どうにもなるものではない。
私が今、恥じている稚拙な表現にも恐らく、何らかの価値が宿っているのではないか―少し大袈裟だが、そんな風にも思うから。
母が亡くなって、7年以上が過ぎている―俄かに信じ難い。
帰郷し、母の死顔を見たあの瞬間から、告別式を終えるまでの、暑い暑い、暑過ぎる3日間の記憶は、どれも鮮明に覚えている。
あれから、いくつかの葬儀に参列した。
若すぎる死も、大往生も、どれも自分には既視感として映る。
葬儀に参列する度に、あの3日間が、頭を支配するのである。
母が死去した翌年、私は『情の花』を共同出版し、自家製の仏壇に供えた―。
拙著を執筆中、私はフリーターだったが、今でもその状況は変わらない。
沢山のアルバイトを経験してきた。
ラブホテルの清掃員を辞めた後は・・・仕分け作業員、引越し作業員、某牛丼屋の店員、違法広告の撤去作業員、いちご大福製造工程における、「いちごのヘタ取り」なんていう、存在自体を知られていないバイトも。
物書きになりたいという夢・・・いや野望は、もちろん今でも抱き続けているが、それはまだ、叶っていない。
時が、止まったようだ・・・しかも、私だけ。
世界は変わり続け、そして、父と姉の生活も、変化していったからだ。
父は、再婚した。
姉は、結婚した。
自分は未だフリーターで、生活状況は、ほとんど変わっていない。
母は、山田洋次や小津安二郎が作り出す、穏やかな映画を愛していた。
申し訳ないとは思いつつ、私はそんな「穏やかさ」とは無縁の、暗くて重くて、時としてえげつないほどに性悪な物語を紡ぎ続けている。
まぁこれは、自分がそんな性だからだと、開き直るしかないのだが・・・。
今の私の状況を、母はどんな表情で見つめているのだろうか―?
父は今年、念願の処女作を、(私と同じ新風舎から)上梓する。
原稿をコツコツと、書き溜めていたのだ。
「オトウサンの味方をしてくれ。応援してくれ」
そんな言葉が綴られた手紙が私の元に届いたのは、母の三回忌が済んだあたりだったか。
様々な理由が重なって、父は再婚を希望していた。
姉も私も、再婚には全面的に賛成だった。
まだ10代であったならば、わだかまりなどが生じたのかもしれない。
だが20歳を過ぎた私が反対する理由などなく・・・そもそも、東京で勝手気ままに暮らしている私などが意見出来るような立場には、居なかったのだが・・・。
牧野家に、再び明かりが灯された―。
父の新しいパートナーは、美恵子さんという、とてもパワフルな女性だった。
なかなか「お母さん」と言えないのが心苦しいが、美恵子さんは私に、「うんと甘えてね」という、心のこもった手紙を送ってくれた・・・。
姉の結婚式は、私の29回目の誕生日直前に行われた。
「ピアノをマスターする」だの、「出来そうにないから、ハーモニカを吹く」だの格好良い宣言をしておきながら、当日まで、何も準備出来なかった。
私は結局、カメラマンとしてあちこちを撮影していたが・・・どうやらカメラマンとしてのセンスは、微塵もないようである。
私は姉の花嫁衣裳を眺め、誰にも気付かれないように、涙した。
まさか、感極まるとは思ってもみなかった。
姉の幸せそうな笑顔が、とても嬉しかった。
母にもこの至福の瞬間を、感じて欲しい―そんな事を考えていたら、感泣してしまったのだ。
そういえば最近、母に話しかける事をしていない。
三回忌法要までの間、私はしょっちゅう、自家製仏壇の前に座り込み、写真の母に向かって、様々な事を話しかけていた。

今でも、毎日水を取り替えるし、線香も上げる。
だがそれは、毎日の習慣となり、「特別なもの」ではなくなってしまった―そこに気付いた時、私は初めて、「あぁ、7年も経ったからなんだろうな・・・」という思いに至ったのだ。
『情の花』とは、母をイメージした時に、私の頭の中に、最初に浮かんだ「名前」である。
久し振りに、母に甘えてみたくなってしまった・・・。
今夜、話しかけてみようか。
母の大好きだった飴やジュースを供え、胡坐をかいて、じっくり向き合ってみよう。
久し振りだから、母は冷たいかもしれない。
7年前と変わらぬ生活をしている自分を、叱りつけるかもしれないよな・・・。
おわり。
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明日のコラムは・・・
『俳優別10傑 海外「は行」女優篇(1)』