トップ画像は・・・
自家製仏壇に供えたままにしているため、さすがに赤茶けてきた「かーちゃんからの手紙」。
では拙著『情の花』の解説と改稿をつづけよう。
…………………………………………
「若い頃は貧乏であっても、それは恥ではない」
これは、父が私に言った言葉だ。
確かにそうだろう。湯水のごとく金を使えるなんていう若者が居たとしたら、(まぁ偏見かもしれないが)そんな輩は、決まって悪い事をしているか、元々が裕福か、そのどちらかしか有り得まい。
だけれど、いつ何が起きてもいいように、多少の蓄えは必要なのではないか。
母が倒れたという電話を受けたのは、96年の7月25日、早朝だった。
実はこの時点ですでに母は亡くなっていたのだが、父はそれを内緒にしていた。息子の気が動転しないためにとの、配慮であろう。
だが、私は動転してしまった。
なぜか?
笑い話にもならないが、帰る金がなかったからである。
自分の住む町田市から、群馬県館林市まで、鈍行で帰れば3000円もかからない。
だけれど、自分の財布の中には、小銭しか入ってなかった。
銀行口座?
残高は、引き出しが不可能な2桁・・・確か、60円程度しか残されていなかった。
翌日が、給料日だったからだ。
幸い、大家さんがアパートの隣りに住んでいた。
父は機転を利かし、大家さんに電話を入れてくれた。「電車賃を、貸してやってください」、と。
「一体、どこまで迷惑をかければ気が済むのだろう?」
自分の情けなさに頭を抱えながら大家さん宅のドアベルを押した私は、意外な形で、母の死を知る事になる。
大家さんは、5千円を貸してくれた。
その5千円札は、香典袋に入っていたのだった・・・。
『情の花』の第1章『東京から、群馬へ』は、こんな風に展開されていく。
我ながら、何てイイカゲンで馬鹿な男かと思うが・・・。
【第2章】
『鈍行の中で』
その日の朝、父はいつも通り7時少し前に起床した。
母は居間のソファに腰掛け、頭を抱えている。
「気分が悪い」
母はよく気分が悪くなるので、父はその日の異変に、まだ気付いていなかった。
「座っていろ」、そう言って洗面所に行きかけた時、背後で「ドスッ」という音が聞こえた。
母が倒れていた。
倒れたというより、椅子からずり落ちたような感じだったらしい。
父は救急車を呼び、母の最期の1時間に立ち会った。心臓マッサージや電気ショックでも意識は戻らず、7時40分、母は帰らぬ人となった・・・。
母は、我慢する人だった。
私を含めた現代の自己中心的な若者には耳の痛い話だが、常に、「自分より、相手の事」を考える人だった。
亡くなる2~3日前から体調が優れなかったにも関わらず、病院にも行かなかった・・・のだが、ここには、母の我慢する体質が深く関係しているように思われる。
「予約した日まで、我慢する」
「食事療法だけだから、入院は嫌い」
その他にも、理由があったのではないか―?
私は、家族の事を顧みる事をせず、東京で自由気ままに毎日を過ごしている。
姉はその時、海外旅行を楽しんでいた。
「私が居なければ、夫の面倒を、誰が見るのだ?」
そんな意識は、なかったか。
だとすれば、母の死は、私にも責任があるのではないか―?
私が、その場に居たら・・・?
鈍行に揺られながら、私は様々な事を考えた。
家に着くと、母は、真夏なのに、布団をかけて寝ていた。
布団の上には、魔よけの鎌が置かれている。
顔にかけられた白布を取ると、母の顔は、想像以上に黒かった。
暑さのためか?
いや、死人の顔とは、こうなのか?
「燃やしてあげたい」
「燃やすべきだ」
母だって、黒い顔など、見られたくないに違いない・・・私はそう考え、結局、荼毘に付されるまで、落ち着く事が出来なかった。
親類が小さな家に集まったため、身体を休めるスペースが足りない。
私は、父の車で身体を休める事になった。
もちろん、眠る事など出来ない。
車内の暑さで、汗が吹き出てくる。
やはり、私は親不孝者なのだ、勝手気ままに生きていた私は、罪人なのだ―様々な思いが交差し、今まで溜め込んでいた感情が涙となって私の頬をつたう。
私は、泣いた。
号泣した。
【第3章】
『私の小学生時代』
「男の子はある程度、悪い事を経験するものだ。それが、普通」とはよく聞くが、それでも度が過ぎたら、厄介な問題児に過ぎない。
私は、いじめっ子でも番長でもなければ、登校拒否児でもなかった。
だがある意味で、登校拒否児よりもたちの悪い、酷く歪んだ問題児であった。
他者とつるむ事は、苦手だった。
1人で悪行を働き、母だけを困らせる―そんな少年時代を過ごした。
なぜ母だけが?
それは母が、自分の悪行を、父に伝えなかったからである。
万引きの常習犯だったため、誰かの給食費がなくなると、真っ先に私が疑われる。
嘘というか虚言癖があり、嘘が発覚する度に仲間外れにされていた。
私は(なぜか)1人憤り、さらに悪行を働く。
消防署に電話し、「家庭科室が燃えている」と通報する。
ビニールハウスを全て裂き、それを同級生の所為にする。
母は学校や近所の同級生宅に呼び出され、私と私の教育を、非難される。
真っ赤な顔をして頭を下げ続ける母は、帰宅するとすぐに、涙した・・・。
あぁ、悪循環。
勤勉な父と誠実な母のDNAを受け継いでいるはずなのに、この無茶苦茶さは、どうした事か?
自分の悪行を綴ると、原稿用紙100枚では足りない。
つづく。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(229)』
自家製仏壇に供えたままにしているため、さすがに赤茶けてきた「かーちゃんからの手紙」。
では拙著『情の花』の解説と改稿をつづけよう。
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「若い頃は貧乏であっても、それは恥ではない」
これは、父が私に言った言葉だ。
確かにそうだろう。湯水のごとく金を使えるなんていう若者が居たとしたら、(まぁ偏見かもしれないが)そんな輩は、決まって悪い事をしているか、元々が裕福か、そのどちらかしか有り得まい。
だけれど、いつ何が起きてもいいように、多少の蓄えは必要なのではないか。
母が倒れたという電話を受けたのは、96年の7月25日、早朝だった。
実はこの時点ですでに母は亡くなっていたのだが、父はそれを内緒にしていた。息子の気が動転しないためにとの、配慮であろう。
だが、私は動転してしまった。
なぜか?
笑い話にもならないが、帰る金がなかったからである。
自分の住む町田市から、群馬県館林市まで、鈍行で帰れば3000円もかからない。
だけれど、自分の財布の中には、小銭しか入ってなかった。
銀行口座?
残高は、引き出しが不可能な2桁・・・確か、60円程度しか残されていなかった。
翌日が、給料日だったからだ。
幸い、大家さんがアパートの隣りに住んでいた。
父は機転を利かし、大家さんに電話を入れてくれた。「電車賃を、貸してやってください」、と。
「一体、どこまで迷惑をかければ気が済むのだろう?」
自分の情けなさに頭を抱えながら大家さん宅のドアベルを押した私は、意外な形で、母の死を知る事になる。
大家さんは、5千円を貸してくれた。
その5千円札は、香典袋に入っていたのだった・・・。
『情の花』の第1章『東京から、群馬へ』は、こんな風に展開されていく。
我ながら、何てイイカゲンで馬鹿な男かと思うが・・・。
【第2章】
『鈍行の中で』
その日の朝、父はいつも通り7時少し前に起床した。
母は居間のソファに腰掛け、頭を抱えている。
「気分が悪い」
母はよく気分が悪くなるので、父はその日の異変に、まだ気付いていなかった。
「座っていろ」、そう言って洗面所に行きかけた時、背後で「ドスッ」という音が聞こえた。
母が倒れていた。
倒れたというより、椅子からずり落ちたような感じだったらしい。
父は救急車を呼び、母の最期の1時間に立ち会った。心臓マッサージや電気ショックでも意識は戻らず、7時40分、母は帰らぬ人となった・・・。
母は、我慢する人だった。
私を含めた現代の自己中心的な若者には耳の痛い話だが、常に、「自分より、相手の事」を考える人だった。
亡くなる2~3日前から体調が優れなかったにも関わらず、病院にも行かなかった・・・のだが、ここには、母の我慢する体質が深く関係しているように思われる。
「予約した日まで、我慢する」
「食事療法だけだから、入院は嫌い」
その他にも、理由があったのではないか―?
私は、家族の事を顧みる事をせず、東京で自由気ままに毎日を過ごしている。
姉はその時、海外旅行を楽しんでいた。
「私が居なければ、夫の面倒を、誰が見るのだ?」
そんな意識は、なかったか。
だとすれば、母の死は、私にも責任があるのではないか―?
私が、その場に居たら・・・?
鈍行に揺られながら、私は様々な事を考えた。
家に着くと、母は、真夏なのに、布団をかけて寝ていた。
布団の上には、魔よけの鎌が置かれている。
顔にかけられた白布を取ると、母の顔は、想像以上に黒かった。
暑さのためか?
いや、死人の顔とは、こうなのか?
「燃やしてあげたい」
「燃やすべきだ」
母だって、黒い顔など、見られたくないに違いない・・・私はそう考え、結局、荼毘に付されるまで、落ち着く事が出来なかった。
親類が小さな家に集まったため、身体を休めるスペースが足りない。
私は、父の車で身体を休める事になった。
もちろん、眠る事など出来ない。
車内の暑さで、汗が吹き出てくる。
やはり、私は親不孝者なのだ、勝手気ままに生きていた私は、罪人なのだ―様々な思いが交差し、今まで溜め込んでいた感情が涙となって私の頬をつたう。
私は、泣いた。
号泣した。
【第3章】
『私の小学生時代』
「男の子はある程度、悪い事を経験するものだ。それが、普通」とはよく聞くが、それでも度が過ぎたら、厄介な問題児に過ぎない。
私は、いじめっ子でも番長でもなければ、登校拒否児でもなかった。
だがある意味で、登校拒否児よりもたちの悪い、酷く歪んだ問題児であった。
他者とつるむ事は、苦手だった。
1人で悪行を働き、母だけを困らせる―そんな少年時代を過ごした。
なぜ母だけが?
それは母が、自分の悪行を、父に伝えなかったからである。
万引きの常習犯だったため、誰かの給食費がなくなると、真っ先に私が疑われる。
嘘というか虚言癖があり、嘘が発覚する度に仲間外れにされていた。
私は(なぜか)1人憤り、さらに悪行を働く。
消防署に電話し、「家庭科室が燃えている」と通報する。
ビニールハウスを全て裂き、それを同級生の所為にする。
母は学校や近所の同級生宅に呼び出され、私と私の教育を、非難される。
真っ赤な顔をして頭を下げ続ける母は、帰宅するとすぐに、涙した・・・。
あぁ、悪循環。
勤勉な父と誠実な母のDNAを受け継いでいるはずなのに、この無茶苦茶さは、どうした事か?
自分の悪行を綴ると、原稿用紙100枚では足りない。
つづく。
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(229)』