7月25日は、かーちゃんの命日。
かーちゃんが死んだのは49歳で、かーちゃんが居なくなった世界は、もう20年が経過している。
そのころ、自分は22歳だった。
四十九日が過ぎたあと、かーちゃんの想いを綴ったエッセイを書き、翌々年、『情の花』を刊行する。
出版元の新風舎が倒産したため、現在この本は古本屋(あるいはサイト)でしか取り扱っていない。
ウェブの環境が整った10年くらい前に、『情の花』の加筆訂正版を発表。
自分は未だ軽度? のマザコンなので、今回は「初体験シリーズ」の特別版として、ウェブに載せたもののダイジェストを展開してみたい。
当時の文章力は、現在の自分が読むと「けっこう恥ずかしい」が、可能なかぎりそのままを載せてみよう。
その年にしか書けないものがあるから、、、ね。
…………………………………………
・まくら(デッカイの)
・タオルケット
・ハダガケ
・コップ
・イス
・白のポロシャツ
・すいか
・キムチ
・ナスの漬物
・ビール
・レタス、キューリ、トマト、ドレッシング
・・・これだけでは、何の事だかさっぱり分からないだろう。
上に挙げたのは、群馬に住む母・悦子が、東京で独り暮らしを続ける私のためにメモをしたものである。
何年も同じ枕を使っているから、「デッカイ枕」を買ってあげる。
同様に、タオルケットとハダガケを新調する。
同じグラスでビールや水を飲んでいるから、沢山の「コップ」を持っていく。
作家の予備軍のつもりなのに、傾いた椅子を使っているから、新しい「イス」を買ってあげる。ついでに、父の「白のポロシャツ」を持っていってあげる。
初夏は過ぎたのに、未だ初スイカを試していない息子のために、「すいか」を持っていってあげよう。
「キムチ」も好きだったな、意外と渋好みで、「ナスの漬物」も好物らしい。
「ビール」を沢山と、「サラダ」をその場で作るために、「レタス」と「キューリ」、「トマト」と「ドレッシング」を用意して・・・。
電話で話した2日後、母は、メモに記した「大量の贈り物」と共に、父の運転する車に乗ってやってきた。
その5日後、母は急死する。
96年7月25日の事だ。
享年49歳。
急性腎不全・・・直接的原因は、10年以上患っていた糖尿病である。
母は、すでにこの世には居ない―さすがに7年も過ぎた現在では、そんな認識を持たざるを得ないわけだが、亡くなって数年の間は、そんな当たり前の事実でさえ、なかなか実感出来なかったものだ。
母が亡くなったと聞いて、私はすぐに、私の生まれ故郷である群馬県館林市に向かった―全く不思議な話だが、生みの親が亡くなった数時間後だというのに、私は電車の中で、「母についての本を書こう」と決心したのだった。
98年5月30日、私の処女作となる『情の花』が、新風舎より刊行された。
私の半生記と母の生涯をクロスさせ、それを鎮魂歌としたエッセイ集である。
あれから、7年が過ぎている。
ちょっと、信じられない。
22歳だった私は、あと数ヶ月で、30歳になる。
知識も稼ぎも増えたはずだが、それでも貧乏フリーターのままというのは、全く変わっていないわけだ。
だが、世の中は変わり、また、私の周囲も変化を見せた。
父は、再婚した。
それに伴い、新しい家を建てた。
姉は、結婚した。
さて、どこから始めよう。
ともかく、『情の花』のあらすじを記すべきだろう。何しろ、未読の方の方が、多いわけだから。
『情の花』は、ソフトカバーの横書きで出版された。
そう、横書きというのは、珍しいかもしれない。一般的には、日本の書物は縦書きで、左から右へと、ページを繰る体勢を取っている。だが横書きだと、それは逆になる。
これは私が最もこだわった点で、①10代の若者に読んで欲しい。今の子は、横書きの方がスンナリ入り易いはずだ・・・という確信と、②金銭や年齢など、数字が沢山登場するため、堅い印象を持つ漢数字では表現したくなかったから・・・という理由があった。
全14章の、147ページ。
タイトルは最後に登場する自作の詩に由来している。
1章ごとの簡単なあらすじを記し、そこに解説と加筆を展開していく事にしよう。
・・・と、その前に。
母の人柄を理解してもらうために、まず母の手紙を掲載しておきたい。
これは本作の第9章、『私の奨学生時代』にも掲載した、母から私への、最初で最後の手紙である。
92年―私が上京した年だが、この年の母の日に、私は母へ、真っ赤な財布をプレゼントした。それを受けて、母は情愛のこもった手紙を、私に送ったのだ。
…………………………………………
「光永、お元気ですか。
母の日のプレゼント、有難う。
集金はそんなに大変だとは思いませんでした。でも、「ご苦労様」って言われると、うれしいでしょう。
早いもので、光永が行ってから、2ヶ月経ちました。学校と配達と、両方大変でしょう。1人が家に居ないっていう事はさびしいですよ。
今は矢代のおばあちゃんが夕方来て話していきますので退屈しませんが、7時頃、お姉ちゃんが帰ってくるまで1人でテレビ見てもつまんないし、光永が居る頃はいろいろ話したり、6時過ぎると夕食でしたが、今では3人そろってからです。
その前に鍵をかけてお風呂に入って、そのうちお姉ちゃんが帰ってきます。
この前、お姉ちゃんはお風呂で気を失って右の耳の下をぶっつけて、ワーワー泣きました。ちょうど連休中だったので良かったのですが、3日間くらい、大変でした。
今年は休み中、お父さんもお姉ちゃんも、掃除でどこへも出掛けませんでした。
お母さんも、おかげでゆっくり出来ました。
今日は、11日(月)。会社を休んで血の検査に行ってきました。お姉ちゃんは土曜日に仕事に出て、月曜に休んで連れてってくれました。
お姉ちゃんには洋服を母の日のプレゼントに買ってもらい、家へ帰ってきたら、光永のが届いていました。
うれしかったです。(涙が出ました)
お母さんは、幸福だと思います。
お父さんは10日は放送大学だったので、「お母さん、アイス買ってきたよ。それとこれから、靴を買いにいってあげよう」って言ってくれました。
お父さんも、お姉ちゃんも、よくやってくれています。
お姉ちゃんは毎日、起こさなくてもちゃんと起きてくるし、お父さんもこの前、人間ドッグに行ったけれど、全然、悪い所ナシ、少し太り過ぎだそうです。
お母さんも、今の所、大丈夫です。
何か送ってもらいたいものがあったら、言ってください。(遠慮しないで)
このテレホンカードは、会社の人とツツジを見にいったり、足利の藤を見にいった時に買ったものです。(会社の人に笑われました)「また、子供に送るんでしょう?」って。
色々と書きたい事あるんですが、いざ書こうとすると、中々、光永みたいにはいきません。字はヘタだし。
とりあえず、この辺で、プレゼント有難う。
大事に使います。又、書きます。読みづらいでしょう。
体に気を付けて。」
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(228)』
かーちゃんが死んだのは49歳で、かーちゃんが居なくなった世界は、もう20年が経過している。
そのころ、自分は22歳だった。
四十九日が過ぎたあと、かーちゃんの想いを綴ったエッセイを書き、翌々年、『情の花』を刊行する。
出版元の新風舎が倒産したため、現在この本は古本屋(あるいはサイト)でしか取り扱っていない。
ウェブの環境が整った10年くらい前に、『情の花』の加筆訂正版を発表。
自分は未だ軽度? のマザコンなので、今回は「初体験シリーズ」の特別版として、ウェブに載せたもののダイジェストを展開してみたい。
当時の文章力は、現在の自分が読むと「けっこう恥ずかしい」が、可能なかぎりそのままを載せてみよう。
その年にしか書けないものがあるから、、、ね。
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・まくら(デッカイの)
・タオルケット
・ハダガケ
・コップ
・イス
・白のポロシャツ
・すいか
・キムチ
・ナスの漬物
・ビール
・レタス、キューリ、トマト、ドレッシング
・・・これだけでは、何の事だかさっぱり分からないだろう。
上に挙げたのは、群馬に住む母・悦子が、東京で独り暮らしを続ける私のためにメモをしたものである。
何年も同じ枕を使っているから、「デッカイ枕」を買ってあげる。
同様に、タオルケットとハダガケを新調する。
同じグラスでビールや水を飲んでいるから、沢山の「コップ」を持っていく。
作家の予備軍のつもりなのに、傾いた椅子を使っているから、新しい「イス」を買ってあげる。ついでに、父の「白のポロシャツ」を持っていってあげる。
初夏は過ぎたのに、未だ初スイカを試していない息子のために、「すいか」を持っていってあげよう。
「キムチ」も好きだったな、意外と渋好みで、「ナスの漬物」も好物らしい。
「ビール」を沢山と、「サラダ」をその場で作るために、「レタス」と「キューリ」、「トマト」と「ドレッシング」を用意して・・・。
電話で話した2日後、母は、メモに記した「大量の贈り物」と共に、父の運転する車に乗ってやってきた。
その5日後、母は急死する。
96年7月25日の事だ。
享年49歳。
急性腎不全・・・直接的原因は、10年以上患っていた糖尿病である。
母は、すでにこの世には居ない―さすがに7年も過ぎた現在では、そんな認識を持たざるを得ないわけだが、亡くなって数年の間は、そんな当たり前の事実でさえ、なかなか実感出来なかったものだ。
母が亡くなったと聞いて、私はすぐに、私の生まれ故郷である群馬県館林市に向かった―全く不思議な話だが、生みの親が亡くなった数時間後だというのに、私は電車の中で、「母についての本を書こう」と決心したのだった。
98年5月30日、私の処女作となる『情の花』が、新風舎より刊行された。
私の半生記と母の生涯をクロスさせ、それを鎮魂歌としたエッセイ集である。
あれから、7年が過ぎている。
ちょっと、信じられない。
22歳だった私は、あと数ヶ月で、30歳になる。
知識も稼ぎも増えたはずだが、それでも貧乏フリーターのままというのは、全く変わっていないわけだ。
だが、世の中は変わり、また、私の周囲も変化を見せた。
父は、再婚した。
それに伴い、新しい家を建てた。
姉は、結婚した。
さて、どこから始めよう。
ともかく、『情の花』のあらすじを記すべきだろう。何しろ、未読の方の方が、多いわけだから。
『情の花』は、ソフトカバーの横書きで出版された。
そう、横書きというのは、珍しいかもしれない。一般的には、日本の書物は縦書きで、左から右へと、ページを繰る体勢を取っている。だが横書きだと、それは逆になる。
これは私が最もこだわった点で、①10代の若者に読んで欲しい。今の子は、横書きの方がスンナリ入り易いはずだ・・・という確信と、②金銭や年齢など、数字が沢山登場するため、堅い印象を持つ漢数字では表現したくなかったから・・・という理由があった。
全14章の、147ページ。
タイトルは最後に登場する自作の詩に由来している。
1章ごとの簡単なあらすじを記し、そこに解説と加筆を展開していく事にしよう。
・・・と、その前に。
母の人柄を理解してもらうために、まず母の手紙を掲載しておきたい。
これは本作の第9章、『私の奨学生時代』にも掲載した、母から私への、最初で最後の手紙である。
92年―私が上京した年だが、この年の母の日に、私は母へ、真っ赤な財布をプレゼントした。それを受けて、母は情愛のこもった手紙を、私に送ったのだ。
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「光永、お元気ですか。
母の日のプレゼント、有難う。
集金はそんなに大変だとは思いませんでした。でも、「ご苦労様」って言われると、うれしいでしょう。
早いもので、光永が行ってから、2ヶ月経ちました。学校と配達と、両方大変でしょう。1人が家に居ないっていう事はさびしいですよ。
今は矢代のおばあちゃんが夕方来て話していきますので退屈しませんが、7時頃、お姉ちゃんが帰ってくるまで1人でテレビ見てもつまんないし、光永が居る頃はいろいろ話したり、6時過ぎると夕食でしたが、今では3人そろってからです。
その前に鍵をかけてお風呂に入って、そのうちお姉ちゃんが帰ってきます。
この前、お姉ちゃんはお風呂で気を失って右の耳の下をぶっつけて、ワーワー泣きました。ちょうど連休中だったので良かったのですが、3日間くらい、大変でした。
今年は休み中、お父さんもお姉ちゃんも、掃除でどこへも出掛けませんでした。
お母さんも、おかげでゆっくり出来ました。
今日は、11日(月)。会社を休んで血の検査に行ってきました。お姉ちゃんは土曜日に仕事に出て、月曜に休んで連れてってくれました。
お姉ちゃんには洋服を母の日のプレゼントに買ってもらい、家へ帰ってきたら、光永のが届いていました。
うれしかったです。(涙が出ました)
お母さんは、幸福だと思います。
お父さんは10日は放送大学だったので、「お母さん、アイス買ってきたよ。それとこれから、靴を買いにいってあげよう」って言ってくれました。
お父さんも、お姉ちゃんも、よくやってくれています。
お姉ちゃんは毎日、起こさなくてもちゃんと起きてくるし、お父さんもこの前、人間ドッグに行ったけれど、全然、悪い所ナシ、少し太り過ぎだそうです。
お母さんも、今の所、大丈夫です。
何か送ってもらいたいものがあったら、言ってください。(遠慮しないで)
このテレホンカードは、会社の人とツツジを見にいったり、足利の藤を見にいった時に買ったものです。(会社の人に笑われました)「また、子供に送るんでしょう?」って。
色々と書きたい事あるんですが、いざ書こうとすると、中々、光永みたいにはいきません。字はヘタだし。
とりあえず、この辺で、プレゼント有難う。
大事に使います。又、書きます。読みづらいでしょう。
体に気を付けて。」
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(228)』