Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

初体験 リッジモント・ハイ(230)

2017-07-11 00:10:00 | コラム
トップ画像は、高校1年時、減量を試みる前の「みっともない」自分。

現在ではほとんどネタと化しており、見せればみんな笑ったり驚いたりしてくれるので、たいへん重宝している小道具である。

まぁでも、今だから笑えるのであって、当時は、ほんとう、生きていてもいいことがない、、、と思っていたのだよなぁ!!


拙著『情の花』の解説をつづけます。

編集していて、あぁ現在の文章力で再構築したい! という強い欲求に駆られているけれど、我慢我慢!!

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【第8章】
『火葬』

「読経が終わって、明日になれば悦子さんは火葬されるわけです。遺族の方は、どうしても今の悦子さんの顔が頭に焼き付いてしまって、忘れる事が出来ないと思います。しかし、火葬が終わったら、悦子さんのためにも、今の顔は忘れてあげましょう。今の顔ではなくて、生前の、悦子さんが幸せそうに笑った時の顔を思い出してあげてください。そうすれば、あなた方は悲しみにくれる事がないし、悦子さんも幸せだと思います」

生まれて初めて僧侶のことばに感動したが、これは故人の身内だからだろうか。


7月27日―。
漸く、火葬の時がやってきた。
火葬に土葬、水葬なんていうものもあるが、つくづく火葬が主流の日本に住んでいて、良かったと思っている。土葬の国に住んでいたら、ひょっとしたら私は、一生落ち着く事が出来なかったかもしれない。

午前9時30分―。
柩の「釘打ち」が行われた。
母の顔を見るのは、これが最後である。

遺族は、火葬場までマイクロバスで向かう。
火葬場までは20分足らずだが、バスは静寂に包まれ、この20分が、異様に長く感じる。

10時15分、火葬場に到着。
母は、かまどの中に、消えていった・・・。 

母は、骨粗しょう症だった。
確信は持てないが、骨上げの時、「確かに、少ないのかな」なんて思った。

私は骨壷を抱いて、マイクロバスに戻った・・・。

【第9章】
『私の奨学生時代』

「新聞少年」という言葉の響きは何とも前時代的だが、新聞奨学生制度を利用して、大学・専門学校に通っている若者は、意外と多い。
彼らのほとんどが、家庭の経済的理由で、もしくは「進路を、親から反対されたから」奨学生制度を利用している。

牧野家は、経済的に裕福な方ではないが、だからと言って、息子1人を専門学校に通わせられないというほどには、貧しくなかった。
だが、「脚本家」という、将来性の全く見えぬ職業を目指す私は、親に金を出してもらう事に躊躇いを感じた・・・というと、格好良過ぎるか。
ともかく、「自分を、試してみたかった」のだと思う。

そんなわけで自分は、新聞奨学生制度を利用して、東京は調布の専門学校に通い始めた。
 
朝2時30分に起床、チラシを入れて、4時には配達をスタートさせ、6時30分に、配達を終了させる。
学校を終えると、夕刊配達が待っている。
夕刊はチラシ入れがないし、本紙自体が薄いので、かなり楽だった。
1時間30分ほどで配達を終え、それから夕食である。
辛いのは、集金期間であろう。
集金期間は25日から翌月10日までで、この間は、夕食終了後、午後10時前後まで、仕事に縛られる事になる。
区域内の98%を回収出来ないと、給料が出ない仕組みになっているので、それこそ必死になって、集金活動に精を出すのだ。

新聞少年を褒める主婦は多い。

「感心ねぇ、ウチの息子なんか・・」
「頑張ってね!」
「今の子は、親に依存ばかりするのに・・・」

だから私は、「俺は、1人で生きている」と調子に乗り、周囲に対して、家族に対して、凄く不遜な態度を取っていたように思う。

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私と母は、塀の前に立ち尽くしていている―。
母は私の肩を借りて、何とか塀をよじ登った。
だが母は、怖さでガタガタと震えていて、何だか今にも落下してしまいそうだった。
早く、何とかしてあげなければ・・・。
 
「母さん、もうちょっと、踏ん張ってて!!」

私は素早く塀をよじ登って向こう側に着地し、母を抱きとめようとした。
 
だが母は、私を待たずに飛び降りてしまった。
顔面を強打する、母。

「どうして待てなかったの?」

私の問いには答えずに、母は顔を擦り、微笑しながら、こんな言葉を吐いた。

「痛かった~」
 
・・・母が死んでからの1年間、こんな夢を、よく見た。

私は飛び起き、夢であることを理解するとともに、涙していることに気づくのであった。


母が生きていたら笑いに変えることが出来るシュールな内容だが、死んでいるから? いろんな解釈が出来るのだろう。

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【第10章】
『告別式』
 
四十九日法要が行われた際、住職はこんな話をした。

「悦子さんが亡くなられて、お子さん達はさぞ悲しんでおられる事でしょう。しかし、最も悲しんでおられるのは、旦那さんなのです。そういうものなのです」

父は常に冷静沈着で、私は父の「焦っている姿」を見た事がない。
通夜から告別式にかけての、嵐のような3日間でさえ、いつもの父だった―少なくとも、私にはそう見えた。
だから、そうだろうとは思っていても、住職の言葉を、なかなかリアルに受け止められなかった。
 
母の最期を見届けたのは、父だけである。倒れた母を見て、事の重大さに気付いた父は、まず救急車を呼んだ。
焦らず、親切過ぎるほどに丁寧に道順を伝え、電話を切ると外に出て、近所の人に、「救急車が来るので、外で待っていてもらえませんか?」と頼んだ。
私が当日に帰る事が出来たのも、父が機転を利かせ、大家さんに電話したからだった。
 
告別式の日も、相変わらず暑かった。
「喪主の挨拶」で、父はこんな事を言った。
 
「―これほどまでの方々が参列してくださったのは、やはり、悦子の人柄ゆえでしょう。悦子は非常に心が優しく、情に溢れた、素晴らしい女性でした。・・・早過ぎる、急過ぎる死ではありましたが、2人の子供も順調に成長し、そして今日、沢山の方が参列してくださった事を考えると、悦子は幸せだと感じているに違いありません」


父は私に、「本を読め。文字を書け」と言い続けた。
当然、父からの手紙も多い。
私の好きな手紙を、ここに載せておこう。

これは、私が新聞奨学生だった頃に送られてきた手紙である。
 
「(中略)オトウサンも君の年齢の頃、自分で働いた僅かばかりの給料の中から、お金を姉弟に送り続けた経験を持っている。もっとも、オトウサンの世代では、そんな事など、日本中で当たり前の時代であった。(中略)今の所、君のやる気の方が優勢で、色々と問題はあるにしろ、比較的順調のようだが、オトウサンがいつも言っているように、『好事、魔多し』だ。調子に乗り過ぎるな。そして君の場合、最終的に到達しなければならない位置がある。『人になかなか見えない事を、見えるようにする』ことにある。いわゆる、芸術の真髄だ」


つづく。

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明日のコラムは・・・

『初体験 リッジモント・ハイ(231)』
コメント (1)
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