Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

自分でやりたい

2017-06-15 00:10:00 | コラム
不器用である。

不器用であることを過剰に主張し、もうこれで問題ないだろうと思ったのに、相手が驚く―そのくらいの不器用。

の、クセして、自分でやりたいことがある。

(1)バリカンで坊主にする

(2)ヒゲを剃る

これだけは、自分でやりたい。

プロにやってもらえば、安心で、なおかつ気持ちいいっしょ?

ハニーにやってもらえば、それだけでコミュニケーションになるっしょ?

分かっているが、それでもやりたい。


ハニーは自分の頭を刈りたがる? ひとなので、それが理由で喧嘩が絶えない。

阿呆みたいな喧嘩だが、双方とも大真面目である。

「なんで刈らせてくれないの!?」
「それはあれだよ、俺がパンストを穿かせるといっても、ハニーが拒否するのと一緒だよ!!」
「ぜんぜんちがう!!」


クッソくだらない。


前述したように基本が不器用なので、坊主やヒゲの整いが完璧かどうかは疑問。

それでも、それだけは自分でやりたいというのは、いちおうは刃物を扱っているから、、、だろうか。


それを理由に相手を信用していないっていうのは、ちょっとひどいかもしれない・・・とは、自分でも思う。


ただ。
そんなシチュエーションが訪れるとは思わないが・・・

刃物は自分で扱いたいとはいっても、たとえば『ランボー』(82)のように、自分の傷を自分で縫うという芸当は無理である。




そこに他者が居なかったとしたら、縫うという発想は捨て、傷口をそのまんまにしておくことだろう。

怪我が悪化し、菌が入るのだろうが、おっかなくて傷口さえ見ることが出来ないかもしれない。





映画を観て自分が「漢、だなぁ!」と感動するのは、そういう姿に触れたときである。

ランボーのほかに、
自分で脱臼させ、それを元に戻すマーティン・リッグス(=87年の『リーサル・ウェポン』)とか。


坊主やヒゲなんかママゴトだなぁ、
いやママゴトだからこそ、不器用な自分はやりたがるのだろうな、、、と最近、納得した次第である。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『俳優別10傑 海外「さ行」女優篇(9)』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シネマしりとり「薀蓄篇」(210)

2017-06-14 00:10:00 | コラム
きちが「い」→「い」んもらる(インモラル)

三島由紀夫の意外な一面がうかがえる快作、『不道徳教育講座』。

…………………………………………

この本を多少まじめに読んでくれる青年のために、附加へなければならぬことは、十年前の日本が今よりもずつと「偽善」の横行してゐた社会だつたといふことである。その鼻持ちならない平和主義的偽善を打破するためには、かういふ軽薄な逆説、多少品のわるい揶揄の精神が必要だつたのである。

…………………………………………

「不道徳」と冠している割には・・・と読み始めたら、三島本人がこう書いているように、本作は「多少」「品が悪い」程度の内容で。


不道徳を英訳すると、「immoral」になる。

ほかに、「不品行な」「ふしだらな」「身持ちの悪い」という意味も。

すべてとはいえないが、表現は「良識を撃つ」役目があって、映画だけでなく小説も漫画も、ある意味では存在自体がインモラルであると。


すでに古典ともいえる、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』(71)。




初見は高校生のころで、ずいぶんと過激な映画に思えた。

しかしいろんな映画に触れているうちに、この作品は過激といえば過激かもしれないけれど、インモラルと評するには「お洒落に過ぎる」のではないかと。

時代が追いついたために、そう感じるのかもしれない。


そんな自分が選出する、真にインモラルな映画4傑は、以下のとおり。

時代が追いつこうが、この物語は真に病んでいるなぁ、、、と。


『ブルーベルベット』(86)

鬼才リンチの代表作。

切り落とされた耳の「奥の、奥」に、異様な世界が拡がっているという構造自体がどうかしている。

デニス・ホッパーの怪演ばかりが話題になるが、




何度も観ていくうちに、涙するローラ・ダーンのほうが狂っているようにみえてくる不思議。


『クラッシュ』(96)

交通事故の衝撃で性的興奮を得る、特殊な男女を描いた世も末映画。



彼らはそのために、「わざと」事故るのだった。


『カノン』(99)

本編に、「モラル」ということばをでかでかと掲げ、それに対抗することを宣言している。

観るひとしか観ない映画だろうが、観たひとにとって、「好き嫌いを超えて」忘れられない作品になるだろう。


『ニンフォマニアック Vol.1』(2013)

デンマークのキチガイ、トリアーが描く性と性と性と性と性の物語。



トリアーと、映画そのものの力を信じる熱い俳優たちが集結、みんな楽しそうにインモラルを演じている。


次回のしりとりは・・・
いんもら「る」→「る」ーれっと。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『自分でやりたい』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シネマしりとり「薀蓄篇」(209)

2017-06-13 00:10:00 | コラム
つ「き」→「き」ちがい

塩ではなく覚醒剤を振りかけてスイカを喰らう映画『シャブ極道』(96)は、このタイトルが問題視されてビデオ化の際に(一時的に)改題を余儀なくされた。




このいざこざが報じられた際、「じゃあ『気狂いピエロ』はどうなるんだよ!?」と思ったが、あぁ、そういえばこの名作もタイトルが問題になったことがあったっけ。

ゴダールが一部で神と崇められている、そのきっかけを作った映画であろう『気狂いピエロ』(65)の正しい読みかたは「きちがいぴえろ」。




…………………………………………

キチガイとは「気違い・気狂い」とも書くように、精神状態が正常でなくなることや正常でなくなった人、尋常な精神状態では行えない類いの犯行を犯した人を指す。これらはいずれも一時的な現象としての精神の乱れに対してであったが、後に精神障害者や知的障害者にも使われるようになる。差別用語。
これらとは別に、一つのことに非常に夢中になることもキチガイという。この場合、夢中になる対象を前につけ『○○キチガイ(○○キチと略す場合もある)』と言うことが多い。○○に入る対象は釣り、車といった趣味や仕事の他、子供や恋人などの人名、企業名に至るまでさまざまである。

(『日本語俗語辞書』より)

…………………………………………

メディアの自主規制以降に「使ってはいけないことば」とされており、このようなことばはいくつもある。

いくつもあるが。
私見であることを前提にいうと、きちがいほど、「使ってはいけないことばになっているけれど、実際は使っていることば」も珍しいのではないか・・・と思うほど、みんな使っている。

「まるできちがい」
「きちがいみたいに」

「狂ってる」も「クレイジー」も有効だが、みんな敢えて「きちがい」を選んでいないか。

自分もそうで、それはもう、「ちょうどいいから」に尽きる。

「脚好き」とはいわず、「脚フェチ」ともいわず、「脚キチガイ」と自称するのは、他者との差別化を図ってのこと。

モノがちがうんだよ、お前らとは。
脚見ただけで射精出来るんか、お前らは!? みたいな。

なにをえばっているのかって話だが。。。


ともあれ。
これほどまでに使用されていることばが、映画やドラマ・出版物に出てこないほうが違和感ありありで。

そういった抗議の意味もこめて、自分のブログや原稿では過剰なほどに「きちがい」を多用している、、、ものの、これがギャランティの発生するものになると、きちんと排除されてしまうのだった。

ガッデム!!


「この件に悪いヤツなんて居ないよ、キチガイがひとり居るだけだ!!」

「あんなキチガイ野郎、素手じゃ追えませんよ」




黒澤の大傑作『天国と地獄』(63)には、2度ほど「きちがい」が登場する。


うん、うん。
やっぱり、このほうが自然なんだよな!!





あすのしりとりは・・・
きちが「い」→「い」んもらる。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(210)』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上映トラブルの映画史

2017-06-12 00:10:00 | コラム
減少傾向にあるとはいえ、未だ踏ん張っている名画座だって多い。

東京の筆頭は『新文芸坐』だが、



飯田橋の『ギンレイホール』も捨て難い。




このギンレイで『沈黙 サイレンス』(2016)が上映されるというので、すでに10回はこなした身だが、11回目を観てやろうと。

「当初の」予定では、妻夫木くん主演の『愚行録』(2017)と二本立てだった。

そう名画座の、いちばんの強みといえば「基本的に二本立て、ときに三本立て」であることと「入場料金が安い」ことだろう。

しかし―。

(助演していた)小出くんのアレがアレして、『愚行録』は全国的に上映中止という事態に。

その代わり、浅野くんの怪演が光った『淵に立つ』(2016)が上映されることになった。


そういえば橋爪遼くんがアレをアレしたために、『たたら侍』(2017)も上映中止(再編集?)に。


私見をいえばロマン・ポランスキーの例もあるのだから、作品と、それを創ったひとの人格は分けて考えるべきで。

小林よしのりが「極悪人が大傑作を創ることもあるだろう」といっているとおりだと思う。

ドストエフスキーなんか、「たちの悪い」犯罪者だしね~。

美川憲一が芸能界のご意見番みたいになっているのには「??」だが、表現そのものはNGにしなくてもよい、、、と。


そこできょうは、「なんらかの理由によって」上映が中止になる・・・そんな映画史をいくつか紹介しよう。


(1)『REX 恐竜物語』(93)

安達祐実主演のSF。

公開直後、監督の角川春樹がコカイン密輸事件で逮捕されて上映が打ち切りに。

ただ『愚行録』や『たたら侍』のケースとちがって「いっせいに」というわけではなかったので、地方などでは「割と長い期間」上映されていた。

(2)『スクリーム』(96)

「スプラッター映画を批評するスプラッター」という構造は、『虚無への供物』のようでもあり、いかにもQTタランティーノ「以後」であることを感じさせてくれる。




日本では97年の6月に公開・・・しかし神戸で児童殺傷事件が発生し、その余波によって2ヶ月ほど公開が遅れることになった。

(3)『靖国 YASUKUNI』(2007)

中国人の監督によるドキュメンタリーだったため、公開前より「反日映画だ」などの批判が起こり、上映を予定していた5つの劇場が上映中止を決定。

こっちからしてみれば、きちんと作品に臨んだあとに評価したい、だからその機会さえ奪われるトラブルは、ほんとうに迷惑でしかない・・・のだけれども、これは日本にかぎった話ではない。

スコセッシがキリストの最後と復活を描いた『最後の誘惑』(88)は、



宗教というデリケートな題材を扱っているために一部で反発が起こり、かなり過激な上映中止運動が展開された。


ほかにもバス事故や震災に配慮して上映が延期になるケースや、上映はされたもののレーティングが問題(=2000年の『バトル・ロワイアル』)になるケースもある。

「その判断」が正しかったこともあれば、「どうかな…」と思うこともある。


映画は金を要する表現であり、関わっている人数の多さもエンド・クレジットを眺めているだけで分かる。

小出くんや橋爪くんがコトの重大さを痛感するのは、これからなのかな・・・。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(209)』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初体験 リッジモント・ハイ(224)

2017-06-11 00:10:00 | コラム
映画などを放映している、金曜の日テレ21時枠。

そのほとんどがジブリ作品や『ハリーポッター』シリーズの印象があるが、視聴率のランキングを確認してみると、意外な作品がひとつ、上位に入っている。

舘ひろし主演のコメディ、『免許がない!』(94)。

アクション映画のトップスターなのに、じつは「自動車免許を持っていなかった」。


※「ハンコ押してくれよ!」の台詞をマネするひとも多かったなぁ





気軽に観ることが出来る内容ゆえ、ウケたのかな、ただ脚本は森田芳光で、キャラクターの描き分けかたとかはさすがに巧い。


つまりは自分も、そういうことである。

未だ免許を持っていないため、顔写真つきの身分証明といえば、パスポートになる。
現在はパスポートがあるからいいが、20代のころはそれさえ持っていなかった。

唯一の身分証、国民健康保険証には顔写真がついていない。
だからケータイの新規契約の際、保険証のほかに、たとえば公共料金の請求書などが必要なのだった。

しかし、そんなことは知らずにdocomoショップに行ったわけで。

町田市というのは、八王子市ほどではないが、地形的に「ムダに? 長い」。

だから『ボス電2』が用意されているというdocomoショップ町田駅前店に、電車に乗って向かったわけですよ。

それなのに、あぁそれなのに。

保険証だけでは、契約が出来ないというではないか!!


店員「―あすにしますか? きょうは、雪も降っていますし」
「…いや、休みはきょうだけなんですよ。夕方くらいになりますが、一旦帰って、また来ます」

というわけで。
ケータイひとつ持つために、約10時間を要したのである。

そんな背景もあってか、この日はうれしくてうれしくて、(疲れているはずなのに)眠らずにケータイをいじっていた。


そのくらい大事にしていた『ボス電2』は、使用してちょうど1年後、酔って電車に乗った際に落としてしまい、自分のもとに帰ってくることはなかった。

友人は「売られたかもね」というが、どうなんでしょう、『ボス電』のシリーズは未使用であれば高額で買い取られるらしいが、けっこう傷だらけだったのだけれども・・・。


おわり。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『上映トラブルの映画史』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする