思い出すこと 三鷹のおじい(小林昇)
『くるくるしんぶん』(第9号~第30号1980年3月~8月)より転載
ーー 「 くるくるしんぶん」は、以前私(まいぱんまま)が出していた手作り新聞です。
小林昇さんは、夫の父親です。子供たちにおじいちゃんの子供時代のことを知ってほしくて、お願いして、書いてもらいました。書き始めたら、思い出すことがどんどん湧き出てきて、分厚い封筒になって、次々と送られてきました。それからそう月日がたたないうちに亡くなってしまったのですが、今でもお義父さんのことを思い出すとなつかしくて、胸があつくなります。
今から六十年ほどまえ、大きな地震が関東地方にあって、東京ではたくさんの家がこわれ、火事がおこって、何万という人が死にました。その時、わたしの生まれた京橋の家も焼けましたが、みんな宮城前の広場へ逃げたのでした。
東京の北の川口という町にいて、やけあとにバラックが建てられるのをまち、東京にもどってきましたが、となりの家も、なかのよかった友達の家もよそへうつったりして、やけあとにはだんだん知らないひとが住むようになり、店屋のつくりも違ったように感じました。東京は変わっていったのです。
東京が変わっていったことで、身近によく覚えているのは、お彼岸の時などおはぎや五目(ごもく)ごはんをつくって、いつも往来(ゆきき)する家へ配って歩かなくなったことです。近所づきあいというものが知らないうちにとりやめになっていったのです。そればかりでなく親戚のひとが来るのが少なくなったことです。
お正月や春休みに子どもたちを集めて、子供会をひらくお医者さん、お料理屋さんの家があって、わたしも呼ばれて行ったものでした。ところが大地震のあとには、そうしたことも聞かなくなりました。
大地震は怖かったばかりでなく、わたしたちの世界を変えていったのでした。
(第9号1980年3月10日)
大地震のとき
子どもの頃を書くつもりで始めたのですが、地震のことを素通りできなくなりました。九月一日の大地震のとき、ちょうど母と末の妹と三人で食事をしていました。突然に下から持ちあげられた感じがすると、台所の棚や茶箪笥(ちゃだんす)のものがばらばら落ちてきて、母が妹を抱きかかえるように玄関の方へ行きました。わたしは食卓の前に座ったままで、母たちが戸口でうずくまっていたのを見ました。はげしい揺れがおさまって外へ出ると、大騒ぎであったのはいうまでもありません。
わたしはあの地震のときに食卓の前をどうして動かなかったかというと、安政大地震に藤田東湖は母を抱いて庭に出ようとして、倒れた家の下敷きになって死んだのをとっさに思い出したからでした。夏休みに読んだ東湖の伝記の印象が強く残っていたからと思っています。あとあとも母は妹を抱きかかえ揺れるので歩けなかった、と皆にいうばかりで、わたしがじっとしていたのに気がつかなかったらしく、それが私にはひどく不満でした。わたしは座ったままだった、と兄や姉にいっても、腰が抜けたからといわれたりしたものでした。父は三浦三崎に、長兄は関西に出かけた留守中のことでした。
中学二年生十五歳のわたしはあのはげしい揺れのなかで、座ったまま動かなかったことにいくぶん得意でもありました。しかし考えてみると、家から外へ逃げ出して無事なこともあり、動かぬことで助かるとはかぎりません。東湖のことをおぼえていたばかりにじっとしていただけなので、もし動かずにいて、かえって圧しつぶされたらばどうでしょう。
いまは地震が起こったら、教えられているように机の下に潜るつもりです。しかしこの頃は小さな地震にも恐がるようになったので、果たして何がおこっても驚かないと心に決めているとおりに、大地震の折にも落ち着いていられるか、怪しいものです。
(第11号1980年3月31日)
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