まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

思い出すこと 2 三鷹のおじい(小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

 子どもの頃を思い出そうとすると、小学校の何年生の頃というのが手がかりになりますけれど、はっきりしないことが多いのです。

 京橋小学校の一年生の終りに、六年生の兄が修学旅行、その当時のきまりになっていた江の島・鎌倉に行くのに、すぐ上の姉(時田)と附添(つきそい)に加わったのを覚えています。姉はわたしを何かというと連れだしたようです。長兄、次兄は家のしごとをして、わたしと年も離れており、長姉は川口の出張所(大地震のあと過ごしたところ)をきりまわしていたので、子どもの頃のわたしは余り関心を持たず、すぐ上の兄は中学校に入ると、わたしを相手にしなくなりました。家族は大ぜいでしたので、女中のおしもが下働きをしたものの、わたしは姉に面倒を見てもらうことが多かったようです。

 家の裏通りに小さな駄菓子屋(だがしや)があって、そこに連れていかれもしました。その店屋の入口にすどおしの硝子(がらす)戸(ど)がはめてあって、外から中が見えました。土間に大きな台がおかれ、その上に駄菓子を入れた硝子のふたのついた浅い箱が並んで、その上のほうにあてものくじなどがぶらさがり、ラムネなどもあったようでした。今でも町はずれで見られる子ども相手の店屋のようでしたが、今のと違うのは、その土間の隣りに狭い部屋があり、どんどん焼ができるようになっていたことです。このことだけはっきり覚えています。どんどん焼の火鉢や鉄板などの道具が片付いていた時は、おはじきやお手だま、あやとりをする遊び場にもなりました。しかしわたしが小学校に入った頃には、この店屋は改築されて、駄菓子だけを売るようになってしまいました。あのどんどん焼の部屋でどんな子と遊んだのか思い出せません。

いまでもあやとりは少しできますが、七段梯子(ばしご)や月にむら雲などは名前だけしか覚えていません。あやとりは姉や三人の妹が遊んでいたのを見て、自然に覚えたのでしょう。お手だまで「旅順開城 約なりて」「さいりょう山は霧深し」の歌、手毬(てまり)歌で「向う横町のお稲荷さんへ」が心に残っています。

 わたしの家は大川(おおかわ)(隅田川)に流れこむ川筋に沿って、上流に銀座通りに架かる京橋があり、下流に稲荷橋があって、橋のそばに鉄砲洲稲荷(湊(みなと)神社)がありました。「江戸名所図会」にも湊神社のことや、その地に諸国の船が出入りした様子が記されています。家の前が道路で、後ろが川なのでしたが、船は稲荷橋近くに泊めてあって、修理する船だけ家の裏につながれていました。母屋のわきの通用口から入ると、裏の家の階下の土間に行くことができて、そこから船に歩板(あゆみいた)(あゆび といってました)が架けてあったのでした。

わたしは船の上を駆けずり廻り、船から落ちて溺れそうになったそうですが、いつのことか覚えていません。震災後の区劃整理で、地名が新富町に変わったのですが、それまでは南八丁堀とよばれていました。

(第15号1980年5月1日)

 

父は夕食後に船を泊めてあった本八丁堀の川岸へ行くことがありました。八丁堀の夜店をよくぶらぶらしたらしく、わたしも父につれられてというか、ついていったというか、夜店を見て歩きました。ある時に八丁堀で寄席(よせ)に立ち寄り、なんだか場内がうす暗いので気味わるく、それっきり寄席にはいったことはありません。ちょうど寄席がさびれた頃のことと後で知ったのですが、有名な京橋ぎわの金沢亭も震災後は復興しなかったのです。

近くの清正公様の縁(えん)日に父について行き、足をのばして高島屋横のすし屋の伯父(おじ)さんの家へ寄ったことがありました。夕食後なのに並べられた寿司を残さずに食べたら、おせいおばさんにほめられたので、恥ずかしくなりました。子どもの時に父と二人きりで歩いたのをはっきり覚えているのは、この時だけです。

父に連れられて活動写真を見たことがありましたが、見終わって明るくなると、見物人が拍手していたので、わたしも拍手したら、姉から真似して拍手などするのはおかしいといわれたことを覚えています。父と一緒に出かけたことはいくらか思い出してきますが、母に連れられて出かけた記憶はひとつもないです。

父におなおさんという妹がおりました。この叔母の安孫子(あびこ)の家に泊まったのは夏の頃でしたが、叔母には子どもがなく、早く逝(な)くなりました。時田の姉が十年ほど前に安孫子に引越したので訪ねましたが、叔母の家はどこにあったのかもわからず、ただ周りに沼があった安孫子という土地を懐かしむだけでした。

わたしの家は廻漕(かいそう)店で屋号を阿波(あわ)家といいました。よく阿波家ののぶちゃんとよばれました。今の徳島県つまり昔の阿波の国から江戸に出てきたので阿波を屋号にしたわけで、お墓に阿波久の名と百八十年ほど前の享和(きょうわ)の年号が刻(きざ)まれているのを、ずっと後に知りました。祖父は滝五郎といって、明治の半ばに逝(な)くなるまで、丁髷(ちょんまげ)を結(ゆ)っていたそうです。江戸時代の気風は明治二十年頃を境としてなくなっていったといわれますが、祖父は江戸人の気風をくずさずにいたのかもしれません。祖父が若かった頃の阿波家は船宿でなかったかと思いますが、わたしの子どもの頃は家に三十屯(とん)以下の艀(船)とぽんぽん蒸気船があって、艀で荷物を運ぶのが商売でした。主に東京湾に入って来る大きな貨物船(本船(ほんせん)とよびました)から銑鉄(せんてつ)(ずくとよんでいました)を芝浦の埠頭(ふとう)で艀に移し、蒸気船で引っ張って隅田川を遡って、荒川の支流の芝川沿いにある川口の出張所に運ぶのでした。コークスも江東区の東京瓦斯(がす)会社から艀に積んで運んだのでした。出張所は長姉夫婦が管理していて、川岸に広い地所があり、そこが艀の積荷の銑鉄やコークスを荷揚げして置く場所になり、そこから鋳物工場に馬力やトラックで運ぶのでした。震災後には商売の様子は変わり、今は一層変わって、川口市の鋳物工場の数は盛んな時の三分の一より少なくなっているそうです。

(第16号1980年5月8日)

 

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